芸術・美学に関する話題

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昨日のひとこと から芸術・美学に関する話題を抜き出しました。

拙論「いき」の論文を読まれると話がわかりやすいです。(要約もあり)人文メーリングリストでの発言が多いです。ご感想はブログメールでどうぞ! 

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人文MLでの投稿に基づいて執筆。

美の破壊検査

イチジクの木には、カミキリムシが卵を産み付ける。孵化した幼虫は枝の中を食い進むのだが、どこまで食い進んでいるかは枝を切ってみないと分からない。枝を細かく輪切りにしていくとやがては虫が出てくるが、その虫を見つけたときには枝は原形を止めない散々な状態になる(実際には、そうならないように普通は卵の段階で駆除するのだが)。

美の分析もある意味では同じような「破壊検査」かもしれない。まったく対象の美について影響を与えないような非破壊検査、「いいですねえ」といった単なる感想では何も分かったことになりはしない。このような手ぬるい感想ですぐに満足してしまう傾向は、本来もっとも強く批判精神を発揮すべき学問の世界でも根強い。分かるか分からないかはともかく、切ってみる必要があるのだ。どこが良いのか悪いのか、徹底的に考えてみなくてはならない。分析した後に美が残っているかどうかは保証はない。対象の美について完全に納得してしまったら、おそらく美は感じられなくなるだろう。これもひとつの「同化」であるわけでだから。これは、種の分かった手品や、答えの分かったクイズと同じようなものだ。

私は基本的に美というものは分析・説明可能だと考えている。かといって説明不可能な美の存在を否定するつもりはないし、私にもあえて分析したくない対象というのはある。ある対象に対して、その美を損ねたくなければ、分析を止めるしかない。それは別に非難するべきことではない。分析しなくても鑑賞はできる。

とはいえ、美の性質について考察する場合は、ある程度冷静な見方は不可欠である。その意味では「崇高」という語は、慎重に使うべきだ。「崇高」という語を使う場合は、分析を放棄したものと見なさざるをえない。それを越え、あえて美の分析をするなら、対象の美が感じ取れなくなる覚悟が必要だろう。

(18:43 02/09/22)


美と破壊

創造ではなく破壊や欠如によっても美は生じうる。

美とは一種の状況である。状況というのは「何かがある」ことではなく、「何かがない」ことによっても発生する(より正確に言えば何かがあり、何かがないことによって特定の状況が発生するわけだが)。たとえば、部屋の不要品を処分し、ゴミを片づければ「きれい」になる(なお「きれい」という日本語がcleanとbeautifulの両方の意味を持つことは、日本の美学を考える上では重要である。清潔さという面以外に、日本人が「無」や「間」、「静けさ」「さっぱり」といった概念に惹かれていることも事実であろう)。また、空き地や廃墟に感じる美も一種の「欠如の美」にあたるだろう。また追憶という行為は、その対象が現前していればそもそも成り立たない。ないものであるがゆえに惹かれるのである。

ここでは思考上、倫理的判断は入っていないが、実際上は、ひとは倫理を完全に切り離すことはできない。いかに美しい光景であっても、倫理的な判断によって、その状況を受け入れえないというケースは大いにあり得る。

だが破壊について、さらに一段思考を進めるならば、破壊は創造と本質的に不可分であることが明らかになる。

既存の美的表現を打ち倒さないかぎり、新しい表現は生まれてこない。これは、ある制作者の一作品内部の創造過程、作品群の推移、制作者のグループによる新しいスタイルの確立などあらゆるレベルでいえる。

この新陳代謝は、歴史的に昔から存在していたわけだが、古代から近世に至るまでは特定の流派という表現のスタイルが比較的長期間維持され、表現方法はその枠内でごくゆるやかに進化していった。近代以前の西洋では「永遠の美」なるものが想定されていたし、現在でもそのような美の存在を肯定する、ナイーブな見方をする人もいる。ともあれ、この新陳代謝は近代に入ってから極めて活発になり、芸術と破壊行為そのものの関係も注目されるようになったといえる。

テーマとしての「破壊」は、戦争と芸術というキーワードの組み合わせでもいろいろ考えられる。古代から戦争は芸術の一大テーマだった。「制作者」が認知される以前の民族的芸術では、古代の記念碑などがそうであろう。また「死」もしかりである。古典的な西洋絵画、たとえば、寓意画などの死に神が、なぜ「美」の構成要素となりうるかは一考に値する。このように一見、反創造的と思えるような芸術のテーマはこれまでも多くあった。だが形式としての破壊的芸術行為は近代になってから認知されるようになった。

(15:53 02/09/13)


人文MLでの投稿に基づいて執筆。

美と非美

私は芸術を受け手の美的体験の面から考える。というより、芸術とは美的体験の一部と考える。受け手と制作者の関係についていえば、受け手とは「全員」のことで、その一部が制作者であるといえる。

美とは「受け手にとって相対的に『新しい』価値」といえるかもしれない。私がここで言う美とは非常に広義なものである。念のため(当然ながら)、私はいわゆる「自然美」も美的体験に含めている。

どのような美であれ、美とは「ある程度流通する」という表現を使わざるを得ない。実際問題、一万人が一万人とも美と認めるような理想的な普遍美は存在しないであろう。「今この瞬間の世界全体にとって新しい価値」というのは非常に難しい。だから「受け手個人にとって相対的」なのである。傑作(masterpiece)と呼ばれる作品は、時間的・空間的に多くの受け手にとって、ほとんど常に『新しさ』を感じさせ、多くの支持を得るがためにそう呼ばれるのであろう。もっとも、あまり長い時間が経つと制作者の意図や能力とは別の意味で、アンティーク的な価値が自動的に付与されてしまう。これは経時変化であり、自然美の領域になる。

この世界にはすでに「美が充満している」と言える。それに飽きたらず芸術として表現したくなるのはなぜなのだろう。

これは、反語ではなく、単純な疑問である。表現欲求、とくに言語による表現欲求については、私は精神分析的な見方をしているが、その見方と美的体験の説明がまだ一枚岩になっているわけではない。

もちろん(醜とは限らない)「非美」も美以上に多くある。ただし、非美が非美たるのは、その潜在的な美的価値に受け手が関心がないためで、意識が向けば非美が美に変わり、美的イベントが発生することもあるはずである。相対的な美的イベントにはむしろ非美の存在が必須であろう。「泥中の蓮」「掃きだめの鶴」のように。非美とカタルシスの関係も興味深いものがある。

美は「受け手が美を感じている特定の状況あるいはイベント」とも言える。この場合、美に気づいていなければ、その美が存在しないのと同じようなものである。

(3:08 02/09/11)


人文メーリングリストへの投稿に加筆。「いき」について。

「近代化(modernization)の流れでも、都市の発達はきわめて重要なものの一つのはずです。江戸は、その他の大都市と比較すると文化的には日本だけでほとんど閉じていながらも、その最後期で、都市としては独自の都市文化を形成しました。江戸時代は、近代以前のはずですが、すでに日本的「近代」と呼べるものが発生していたわけです。「いき」は、その日本的「近代」の産物のひとつでしょう。そのため都市文化独特の視点が、「いき」にも色濃く反映されており、「無関心さ(nonchalance)」の点など、いわゆる「近代」との類似点が見出せるわけです。野暮は、格好をつけようとするあまり、余裕がなくなり、自然体ではなくなって、結果的には格好をつけすぎてしまうわけですよね。

「いき」と似たような概念でも、coolは、「かっこいい」と同じように、きわめて適用範囲が広いですよね。「いき」も、適用範囲が広いですが、「かっこよさ」の中でもより適用範囲がせばまるはずです。その点、スタイリッシュは「かっこいい」より少し狭まりますよね。ただし、「いき」は外見だけでなく、「状況」についても言われます。

「いきな計らい」とよくいいますが、具体例として何か思いつきませんか?

「いき」を、歴史的「いき」と近代的「いき」に分けて考えると分かりやすいことがあります。歴史的「いき」とは、江戸時代後期に、江戸で発生し消費されていた価値です。文化的に閉じていたため、歴史的「いき」と言える資料は限られています。歴史的「いき」は、江戸時代と共に消えたと考えてよいでしょう。

それに対して、近代的「いき」は、開国後から現在に至るまでの、ルーズになった「いき」です。江戸文化をアメリカの文化よりも知らない現代人(私もそのひとりです)が通常言うところの「いき」とは、この近代的「いき」のことです。歴史的「いき」は、過去のものであり、「いき」の原点としての歴史的な価値はあるものの、再現することは困難です。歴史的な資料を見ても、当時の江戸の町人と同じ見方、感じ方をすることは、もはや不可能なわけです。またそうする必然性もありません。「いき」は、近代的「いき」として捉えることで、現在と今後に積極的な意味を持つようになります。

今から70年前に、九鬼周造は、歴史的「いき」を近代的「いき」として新たに位置づけようとしました。これは、きわめて大きな意味を持つ試みですが、偏りがあり、今の視点から見ると、不十分な面もあります。そこで、近代的「いき」を改めて考え直してみたかったわけです。

あくまで一例ですが、無印良品は、「いき」に通じる点が多くあるように思うのですが、どうでしょうか?」

(23:49 02/02/08)


argonautで行われている『「いき」の構造』読書会での発言から。

「思いついたのでざっと書いておきます。読み流してください。

§

「なぜ現代の日本人は客観的に見ても『野暮』になったのか」

このおおざっぱな問いにおおざっぱに答えるならば、まず歴史的に「いき」だったといいうる日本人は江戸を中心とした地域、そして中でもその一部に限定される。もともと「いき」は一部の人間に限定されていたが、近代化の過程でより普遍的な地位を得ていった。
江戸後期、「日本以前の日本人」の大多数である農民は野暮だったし、地方武士も野暮だった。だが江戸後期から明治にかけ、町人が武士を経済的に圧倒しつくしてしまうと、武士階級へ抵抗する逞しさが失われていった。階級間の緊張関係が失われたのである。町人的日本人は、江戸後期で百万人都市だった江戸の半数を占めていても、「日本人」全体から見ると少数である。維新後、農民が「町人化」するに従い、元江戸っ子の選民思想も薄まっていった。気前のよさという意味での意気は、より農民的堅実さ・従順さにとってかわっていった。そして軍部の台頭による軍国主義においては「いき」のもっていた大らかさ、余裕が失われた。戦争を経て、戦後半世紀以上経てもその余裕は回復されていない。余裕のなさが野暮の構成要素であることは間違いない。

§

つまり日本人はもともと数から言えば「いき」ではなくむしろ野暮が圧倒的大多数なわけです。私の祖先も農民ですし、私自身野暮であることは否定しません。(^_^) かといって「いき」が高級な理念であったかというとそうでもない。どう威張ってみても町人以上のものではない。九鬼の力技には少々無理がある。

日本人という自覚は明治以後により明確に形成された点を考えると、「いき」は日本人という語よりも前にあったわけですね。

「道徳的理想主義と宗教的非現実性」というについては九鬼の力みすぎに思えます。理想主義というほど確固とした根拠や中心や理論が「いき」にあったわけではないですね。宗教的という語も強すぎる。禅仏教との関連がないとは思いませんが、それはあくまで間接的な結果でしかないと思います。無常という概念は宗教に起因するとしても、さらに一般的なレベルで文化に溶け込んでいたでしょう。九鬼はそもそもこの点でもあまり突っ込んだ説明はしていないようです。無常という点は、キリスト教文化圏の芸術と日常のあり方と対比して考えると非常に面白いポイントだと思うのですが。」

(1:28 01/09/22)


人文メーリングリストより。

「芸術の分類自体、そしてどの作品がどのような分類になるかについては異論もあるだろうが、考える手がかりとして、下記のような分類をしてみる。(もちろん、この分類が網羅的、決定的というわけではない。)

芸術(art)

「高級芸術(high art)」。一般的に経済的効率性のための妥協は可能な限り行われない。反復、複製は忌避され、「新しさ」が求められる。(下記のポップアートについての文を参照。)

デザイン(design)

応用芸術、非芸術で非娯楽。経済的、機能的効率性のための妥協が行われる。イラストレーションなども含む。

娯楽(entertainment)

「大衆芸術(popular art)」。反復を特徴とする。(陳腐化、シリーズ化)経済的効率性のための妥協が行われる。※ポップアートとは異なる。

クズ、ガラクタ(rubbish)

上記のどれにも属さない。大多数の人間(たぶん作者以外)にとって無価値なもの。私の作品など。

この分類から導かれるいくつかの散発的考察。

1. 純文学はこの分類では芸術に含まれる。

2. 娯楽は芸術よりつねに陳腐であるため、また妥協の結果として芸術に到達できない場合があるため、低級芸術(low art)と見なされることもある。だが、通常は娯楽は芸術とは異なる独立した意図、意義、価値、市場を持つ。

3. ポップアート(pop art)は反復、複製による意図的、批判的な陳腐化により、芸術のアウラを批判する。つまり上記のような分類をふまえた文脈に基づかなければ、理解できない。

4. 歴史的芸術価値 (HAV、Historic Artistic Value)というものが考えられる。つまり、芸術ではないデザイン、娯楽も時間の経過にともない、歴史的価値を持つようになる。

たとえば、ホームズものは文学的には探偵像の確立という歴史的意味において評価されるわけだが、十九世紀末の風俗描写はHAVを持つ。すべての娯楽(クズでさえ数百年も経てば、おそらく)は一定の時間が経てば自動的に芸術化する。

5. 「いき」がもっとも多く関わるのはデザインの分野になる。芸術は「いき」が「いき」たりうるためには複雑すぎ、新奇すぎ、日常からの乖離が大きすぎる。

6. 建築は芸術とデザインの両方にまたがる。著名な建築家の作品は芸術と見なされる側面が強いが、機能性を無視できない場合はデザインに近くなる。」(13:28 00/12/11)


反復の忌避について。英語では同一語、同一シラブルがすぐに繰り返される例は極めて少ない。以下は英語の畳語の例である。出典は http://wordsmith.org 他。

argy-bargy, razzle-dazzle, hoity-toity, chit-chat, hurry-scurry, shilly-shally, wishy-washy, mish-mash, super-duper, dilly-dally, tittle-tattle, fiddle-faddle, palsy-walsy, slipslop, ticky-tacky, tussie-mussie(tuzzy-muzzy), bonbon, ping-pong, higgledy-piggledy, herky-jerky, knick-knack (nick-nack), pell-mell (pellmell), helter-skelter, hodgepodge, willy-nilly

上記の語を見ても分かるとおり、前後の語が完全に同一の畳語はほとんどない。上記ではbonbonが唯一の例だが、これはフランス語からの外来語である。"i"が"a"になって繰り返されている例は多い。日本語では前後が同一の畳語が一般的であるのとは対照的である。

mish-mash, razzle-dazzle, chit-chat, hodgepodge, fiddle-faddle, shilly-shally, tittle-tattle, herky-jerky などには「ごちゃまぜ」「つまらないもの」「たわごと」「意味がない」「無目的」といった特定の含意がある。(super-duperは例外的に肯定的だが。)shilly-shally, dilly-dallyは「ぶらぶらする」「ぐずぐずする」など日本語でも畳語になっている例が多いのは非常に興味深い。

なお文法上が同一形が繰り返される例はhaveの過去完了形、had hadしかすぐには思い浮かばない。(18:26 00/11/12)


人文メーリングリストでの発言より
「反復と儀礼の関係についての雑想。

反復という行為には儀礼性、魔術性が含まれている。
逆に言えば儀礼や魔術に反復が使われると言ってもいい。
呪文は繰り返し唱えるものが多く、また模様でも繰り返しにより象徴的な意味が強められることがある。建築物としては稲荷の幾重にも続く鳥居もそうだろう。
このような意味から、歌や音楽のリフレイン、リプライズ、転調というものも面白い。

「反復」という行為には反合理性がある。一度で済むはずのものを何度も繰り返すわけだから。合理主義の立場からは反復というのは「タブー」となる。
(合理主義者はタブーなどというものを考えたくないのかもしれないが、実際「合理主義者のタブー」というものは結構あるものだ。)
逆の立場、反合理的立場では積極的に反復が用いられることになる。

畳語と呼ばれる語の反復は「プリミティヴ」な印象を与える。日本語には畳語が多い。(特にオノマトペ)「ぺたぺた」「いろいろ」「さまざま」「ぶらぶら」「べとべと」
インドネシア・マレーシア語、アフリカの諸語でも例が多い。
特に前者では繰り返しは主に複数形を意味するらしい。アフリカのンゴロンゴロという印象的な地名を地図帳で見た覚えがある方もいるのでは。新聞社での表記としてはヌゴロンゴロと書いて欲しいらしい。ちなみにアルファベットでの綴りはNgorongoro。
(22:52 00/10/31)


人文メーリングリストの発言から。

「ホンモノ、ニセモノ論の続き。繰り返すが、カニカマについては、カニカマがカニを装って登場したときが一番問題であるわけだ。カニカマが自己のアイデンティティを主張したときのみ、カニを越えることができる。(そのためにはカニカマの名を捨てなければならないだろうが。)

ホンモノを「追いかけるだけ」の人自身はホンモノになることはできない。ブランド品を買って身につけたところで、ブランド品自体がいくらホンモノであっても本人がホンモノになるわけではない。むしろ、本人はブランド品に自己のアイデンティティを依存することで、自分自身のホンモノ性を失う。

"The Catcher in the Rye"でHolden Caulfieldは"The worst part was, the jerk had one of those very phony, Ivy League voices, one of those very tired, snobby voices."てな調子でphonyという語をしょっちゅう繰り返す。この語は私の言うニセモノに通じるものがあるかもしれない。(もっともHoldenのphonyはひがみも入った複雑なものかもしれないが。)

ニセモノがホンモノになる過程こそがもっとも興味深く思える。
自分の外にホンモノを求めようとすれば、自分自身をニセモノに近づけるだけだ。(10:45 00/09/25)


人文メーリングリストの発言から。

「本物とニセ物の区別はどこにあるのでしょうか。本物はなぜ「良い」のか。

なぜこんなことを考えたかというと、最近身の回りのニセモノ性が気になることがあるからです。特に「日本性」に関連して。

「本物」でないとだめ、というこだわりはブランド信仰のように、時として俗物的でもある。本物がニセ物になったり、その逆もあるでしょう。ただ本物とニセ物を一切区別しないというのもどうでしょうか。コーヒーに関してはこだわらない、という人でもビールについてはやかましいかもしれない。

ちなみにベンヤミンは複製技術の発達で「アウラ」(オーラ)というものは失われる、と書きました。ベンヤミンにとってはそれはむしろ望ましいことだったようです。複製技術は実際我々の日常に浸透していますし、情報関連技術は中でも「完全なコピー」を可能にしています。

「ニセモノ」については「本物を演じている」とも考えられる。
その演技がオリジナルの本物以上になったとき、ニセモノは
すでにニセモノでなくなっているのだろうか。

もちろん「世の中のすべては模倣」という考え方もある。
そうは言ってもホンモノがない、という訳でもないだろうしね。
そういう主張をしている人がブランドにこだわらない、という
訳でもないだろうし。

ニセモノだろうがホンモノだろうが「よければよい」という考え方もある。でもそれはニセモノ・ホンモノ度を「よさ」という価値に置き換えているだけの気もする。

いくつか思いつくニセモノの具体例。
かにのようなカニ風味かまぼこ。
木目のようなプラスチック。
宝石のようなガラス玉。

「演出」という言葉も奥が深いですね。レストランや喫茶はもともと雰囲気が重要だろうから、それはそれでやっぱりいいんだろうけど。

どの程度でその雰囲気を味わえるのか、というのに個人差があるんだろうね。フランスに行かなきゃフランス料理じゃない、という人はそうたくさんはいないかもしれない。大多数の日本人は「日本のフランス料理屋」で満足しているだろう。(日本のフランス料理の方がレベルが高いという話を聞いたこともあるが。)
逆にコーヒーはインスタントでもいいや、という人もいるだろうし。」(0:41 00/09/22)


人文メーリングリストの発言より。言葉にできないもの、言葉にするべきもの。

説明するということは難しい。だが説明がどうしても必要な場合がある。そして説明しようとすることは理解を深めようとすることだと思う。例えば私が(今、人文メーリングリストで)異化に関してしているように。

絵や音楽の価値は言葉で説明するのは難しいかもしれない。すでにその価値を共有していて語り合うことには問題ないだろう。このような価値の違いは棲み分けることが必要なのかもしれない。ただ「理解しよう」とする意思がお互いにある場合には、伝えようとすることは無意味ではないと思る。

芸術はともかく、文化の思考パターンについては理解しあうこと、異文化理解はどんなに難しいとしても必要だと思う。それは単純に棲み分けられる問題ではないからである。「理解できない」=「無価値」という公式に陥らないために、異文化を知ろうとする努力は必要だと思う。

日本の学校教育では数学の時間は今の半分に削ってもかまわないと思う。いわゆる「基礎学力」が維持できても人間としての基礎が不安定では無意味である。文部省は何をどうすべきか分かっているのか?(いや、分かっていない。)特に少年犯罪では。いじめに関する状況はどれほど改善されているのか? 学級の過密が問題だということを認識しているのか?

言葉で伝えようとする技術は今の教育でもないがしろにされているけど、重要だと思う。小論文というのは「言葉で伝えようとする技術」としてはあまりにも不十分だ。学校で教えるところは少ないだろうし、あっても小手先の技術でしかないだろう。

欲望やストレスが、ことばや表現行為によって適切に昇華やカタルシスされなければ、行き場を失った欲望やストレスはどのように表出するだろうか。(00/7/16)


人文メーリングリスト七月のテーマ「異化作用」について。
「以下断言口調で書きますが、ヘンだと思ったらどうぞツッコミをいれてください。

異化(defamiliarization)とは「異なるように見せること」です。
異化作用とは「異なったように見えること」です。
近代の芸術を理解する上で、また創作行為を行ううえで非常に重要な概念です。

ロシアの文芸評論家シクロフスキー(1893-1984)が異化ostranenieという考えを打ち出しました。我々はものを理解してもらうように提示するときはふつう分かりやすくしようと努めます。しかし特定の見え方に慣れてしまうと、もの本来の性質をそれ以上探ろうとはしなくなってしまいます。

シクロフスキーに言わせれば「生活における感覚を回復するため」「人が物を感じ取れるようにするため」「石を「石らしく」感じ取れるようにする」ために、わざと石を石らしくないやりかたであつかって見せるわけです。人とまったく同じ表現をしていてはartになりません。

詩では散文詩が韻文詩より遅れて発達したのは、散文(日常言語)で詩を書くのは当初は「普通すぎる」「感動を十分に表現できない」と思われたわけでしょう。そこで韻文詩の様式が十分発達した後で、実は「日常言語で書いた詩」の方が物珍しくなり、artとしての価値を持つようになったと言えないでしょうか。

前にも出てきたブレヒト(1898-1956)が異化効果 Verfremdungseffekt(alienation effect)として劇などに応用しました。ブレヒトはカタルシス、劇にのめりこんでしまうことを防ぐために異化効果を用いました。劇を劇っぽく見せないように、わざと現実に引き戻すようなことを役者にさせるわけです。「劇的な効果」を劇で意図的に避けることで、ある種の新鮮な見方ができるといえるでしょう。」(20:57 00/07/07)


人文メーリングリストでの発言に加筆。自然美と人為美について。「芸術(人為)が自然を再現する行為であるという考えは西洋では古くからありました。ですが日本人はこの西洋の考えとは異質な自然への接し方をしてきました。花見を例に考えてみましょう。現代でも桜前線はより実際的な梅雨前線や花粉情報と同等の扱いでニュースで報じられます。このような報道がされる国が他にもあるならぜひ知りたい。(東アジアの他の国ではどうなのでしょうか)

もちろん、花見の実際的なあり方は「純粋な美の鑑賞」などではありませんし、そうである必要もありません。それは我々が気の会う仲間と美術館に行って価値を共有することが「純粋な美の鑑賞」である必要がないのと同じことです。

社会学的な考察はひとまずおくとして、花見という行為の本来の意味は「自然美の鑑賞」です。ここでは人為的でない美が明らかに主役となっています。このことは「自然美の鑑賞」を積極的に行う文化ではない西洋と比較するうえで強調する意味があります。西洋には花見を初めとして雪見、月見、星見、枯野見という活動にあたるものはありません。個々の自然現象に感興を覚えることはあっても、「文化的」な活動として名を得るには至らないのです。

花見という行為を自然美の鑑賞として「美の学」的に位置付ける試みはいまだ十分ではありません。これは近代の日本人が西洋の美を通して考えることに慣らされているからでしょう。西洋と日本の二重構造的な美の認識を解決できないまま持っているため、話がかみあわなくなることがしばしばあります。

盆栽や生け花に見られる「美」は果たして自然なのでしょうか、人工なのでしょうか?(1:43 00/07/01)」


表現と芸術。人文メーリングリストでの発言に加筆。

「表現とは何でしょうか。絵を描く、文章を書く、音楽を演奏するなどは表現です。ふつうの人間は肉体を持っている以上、世界の中で、世界と何らかの方法で付き合っているわけですよね。自己が世界内でどのように存在するかということを規定する方法は最広義ではすべて「表現」でしょう。髪型、服装など自分の趣味に基づいているわけですよね。それらはある種の表現でなければなんでしょうか。

すべての表現が芸術であるとは限りませんし、その必要もないはずです。表現を必要とされない方に私は言葉で「表現すること」の快感を伝えることはできません。ふぐの味を言葉で説明する必要があるでしょうか。ふぐの味を知るには食べてみればよいのです。そして食べなければふぐの味は分かったとはいえないでしょう。

表現も芸術もなぜたいそうなものである必要があるのでしょうか。美味しいものを食べると美味しいという喜びを感じられますよね。絵を描くと楽しい、歌うと楽しい。(そのうち単に楽しい以上のものを求めるようになるものですが。)表現の快楽について本当に何がしか知りたいと思われているならば、ご自分で積極的に表現を試みられるしかないと思われます。これ以上のことは私には言えません。

すべての芸術にカタルシスが必要ではないかもしれません。ですが、カタルシスをまったく否定するのは禁酒法を制定するようなものです。カタルシスがなくても人間は生きられるかもしれません。ですが、肉体に排泄作用が不可欠であるように精神もまたカタルシスを要求するものです。カタルシス的芸術と非カタルシス的芸術は違った役割を持っており、相互補完的で、それぞれ有益であると考えています。

ピカソについて。ピカソによって子どもの絵の新鮮な視点、芸術の自由さに気づかされるのは、新しい価値の発見でしょう。そのことを憂う必要があるでしょうか。私は幼児を芸術家に擬しているのではありません。そうする必然性はまったくありません。芸術的価値ではなく美的価値の視点から考えているわけですから。人為にのみしか美的価値を見出せぬのはもったいない話です。美的価値と芸術的(人為)価値が同義ではないことにご注意ください。人為価値は美的価値のごく一部でしかありません。美の学は本来両方を扱うべきであるにも関わらず、不幸にも欧米の文脈では人為価値のみがいたずらに誇張され、自然美は不当に無視されてきたと考えます。日本では西洋における人為美と、日本(そして「東洋的」な)自然美を切り離して考える見事な二重構造が保たれているように思えます。連続して考える試みはあまり見かけません。」(16:53 00/06/23)


近所のスーパーで「父の日」イベントで1-6歳くらいの幼児が父親を描いている。1歳何ヶ月?の子どもの絵はさすがに抽象的だった。子どもの絵というのは面白い。何をどのように見ているのか、というのがある意味素直に出ている。もっとも大人の方がそこに描かれているものを正しく受け取ることができるか、というのは意外に困難かもしれない。

子どもの絵には常に一定の認識のパターンが見出される。丸い顔の輪郭、目、鼻、口、髪、耳などである。(ちなみに眼鏡をかけている父親が非常に多い。)(大人のとっての「事実」に反して)これらの一部を欠くと、両親や教師が99%以上の確率でそれを修正しようと介入するであろう。そのような介入、表現の制限は学校教育の過程で強まっていく。それらの制限を抜け出し、表現の本質は「自由であること」を理解するまでには非常に長い年月を要する。それもごく一部の人だけである。我々の大多数は「表現が自由であること」を理解することなく一生を終えるだろう。教育が可能性を育てるのではなく、可能性を摘み取ってゆく作業として機能することは芸術に限らない。

またマンガにおける記号が流用されることもある。特に目の表現などである。現実の観察が中止され、父親像の表現は、記憶から取り出されたマンガ的世界了解によりsubstituteされる。

買い物かごをぶら下げた私は冷凍食品売り場の棚の上に並んだ子どもの絵を見てそのようなことに思いをめぐらした。(21:37 00/06/19)


人文メーリングリストでの発言に加筆。いきについて。近代的「いき」とは。
「東京の後を追っかけるのは「いき」ではないでしょう。そもそも今になってみると東京ほど野暮ったい場所もない。歴史的「いき」に遡ると、「いき」は「江戸っ子」というアイデンティティに支えられてきた一面があります。(だから歴史的いきにおいては、そもそも江戸っ子でなければ「いき」ではなかった。)

日本全国から田舎者が集まってできたのが江戸であり、東京です。江戸・東京人というのは「自分らは違うんだっぺ」と言いたかったわけだ。事実、そのように関東周辺、いや日本全国から自分を江戸・東京人に改造したい集団が流れ込んできた。「江戸は諸国の掃き溜め」といわれる所以である。そして江戸っ子を強調する必要性もでてきた。アメリカ人が国旗国歌にこだわるようにね。

歴史的いきは江戸で成立しえたけど、近代的いきは東京という土地に縛られる必然性がない。二世代前から東京にある家ならたくさんいるだろうけど、五世代前から東京に住んでいる家はかなり少ないでしょう。いや十代続いた名家だってあるとおっしゃるかもしれない。でも名家というのはそもそも庶民的な「いき」とは異質のものです。東京人というのは人工的な幻想にしか過ぎません。近代的いきにおけるベクトルは、むしろそれぞれの地方でのアイデンティティの再発見でしょう。すでにできあがった力の中心に追従することは「いき」とは思えない。歴史的いきには江戸は不可欠ですが、近代的いきの成立の要件と東京という土地は無関係です。むしろそれぞれの郷土の良さを再発見することで無粋な集中を避けることができる。脱構築と「いき」の関係はそのうち考えてみたい。」(0:57 00/06/08)


人文メーリングリストの発言に加筆。「いき」なフェミニズム。「いき」論文参照。

私はフェミニズムは「いき」であるべきだと思っています。「いき」には性のアイデンティティに対する引け目はありません。「いき」におけるトランス セクシュアリティは性のアイデンティティへの余裕の表明なのです。
「あたし女だけど、男っぽくもなれるのよ」
「おれは男だけど、女っぽくもなれるぜ」ということです。
この逆に性のアイデンティティに不安を持つ人は、自分の性を過剰に強調しようとします。不自然に男ぶったり女ぶったりするわけです。

トランスセクシュアル的に男性が女性性を取り込むタイプの「いき」としては長髪があるかもしれません。(長髪のすべてを「いき」で説明できるわけではないです。)だいたい世の中には長髪の男は似合っている人よりうっとおしい方が多いのが現実ではありますが。(22:22 00/06/02)


人文メーリングリストの発言に加筆。「いき」のトランスセクシュアル性。「いき」論文参照。
「ある種の「いき」はトランスセクシュアルと言えるでしょう。本MLでしばらく前に取り上げられたBenettonの会長(年配の男性)は、自らのヌードを全世界の新聞の全面広告に出して、不要な服の寄付をうったえました。これは厳密にはトランスセクシュアルという以上のものがあります。(つまり会長職という要職にある者が自分をさらけ出す思い切りの良さ、意気)ですが、男性ヌードが女性ヌードより少ない現状のなかではトランスセクシュアルと重なるものがあるともいえます。

もっとも、すべてのトランスセクシュアルが「いき」なわけではありません。またホモセクシュアルは性の越境行為がすでに完了している点で緊張感に欠けます。「いき」はより「一時的な」トランスセクシュアル行為のみに適用されると考えられます。(差異による緊張感がないので中性的ではけっきょくつまらないのです。)トランスセクシュアルであるということは常により緊張した危うさが存在します。これに対し、その美的可能性を一律に否定するものではありませんが、ホモセクシュアルは非日常的印象を与えることはあっても、常に「いき」とは限りません。」(0:02 00/06/02)


人文メーリングリストの発言に加筆。欲望と「いき」。「いき」論文参照。
「「いき」とは「欲望の充足を意志的に抑圧している状態」と思う。場合によっては欲望の充足が阻害されている状態。欲望が最初から存在しない状態ではない。こどもはある意味においては欲望の発達が不完全であるため「いき」になりにくい。また仏教における涅槃など、欲望の完全な否定ではない。地味であるだけでは「いき」にならない。そもそも深川の遊郭に起源を持つ「いき」が禁欲とは考えにくい。かといって、ポルノや全裸のように欲望の放縦な発散でもない。目立ちすぎる華美、優美、荘厳は「いき」ではありません。欲望が抑圧されストレスがある緊張状態が「いき」なわけです。その抑圧に意気が要求される。余裕を見せている状態です。見えそうで見えない状態。仲のいい二人にちょっかいを出したいのをぐっと抑える状態。嫉妬したいところをぐっと抑える状態。友人の恋人を奪いたいのをぐっと抑える状態。相手にもっと近づきたいのをぐっと抑える状態。これが「いき」なほっちゃ。」(20:37 00/05/31)


人文メーリングリストの発言に加筆。「いき」な色について。「いき」論文参照。
「九鬼周造は鼠色、茶、青の三色を「いき」な色といっています。だがこれには問題もある。私は「いき」に対する見方として、形態的いきと状況的いきの二つを考えてます。形態的いきは目に見える色、形、構造が「いき」と感じさせるものです。九鬼の言う鼠色、茶、青がそうです。状況的いきは目に見えない抽象的なレベル、ある状況が「いき」の感覚を起こさせるもの。状況によっては鼠色、茶、青に関わらずある色が「いき」といえる場合がある。またまわりが鼠色、茶、青だらけだと、これらの色はもはや「いき」とはいえない場合もある。いき的な形態(色)は、いきを決定づける状況によって覆されることがある。だから状況に関わらず絶対に「いき」な色、というのはないでしょうね。

また「いき」には歴史的いきと近代的いきという見方も可能です。前者は狭義の「いき」、江戸という時代と空間に表出した美意識です。後者は「いき」の概念を近代的に捉えなおし、適用範囲を拡大したものです。(『「いき」の構造』は歴史的いきを近代的いきとして捉えなおそうとした研究と考えられるが、論理的、方法論的に自己破綻している。)形態的いきは「定義済み」の「いき」であり、歴史的いきとして固定化し、発展性がない。それに対して状況的いきは、近代においては近代的いきとして状況に応じて柔軟な適用が可能なのです。(しかも有用かつ興味深い。)

分かりやすい例としてルパン三世を考えてみましょう。(息が長い作品ですよね。)ああいう派手なジャケットやタイをしている人は街ではそれほどいませんね。(まあ、ときにはいますが。)悪趣味と見なされる場合もあるが、まわりがあまりにも退屈な色使いをしてつまらない場合は、思い切りのよさ(意気)の点では「いき」と感じさせる可能性もあるわけです。

私自身についてはファッションに関して理屈は捏ねても実践がまったく追いついてない状態ですね。貧しいので。」(21:11 00/05/29)


人文メーリングリストでの発言に加筆。女性の友情、「いき」。
「女性の友情を描いた物語はどれだけあるだろうか。少女時代のものはあるかもしれない。そうすると少ないのは「おとなの女性間の友情」? あまり年齢が低いと男女の区別がない可能性もある。「おとなの女性の友情」の特性はなんでしょうか?

男の友情ははっきり言って多いです。というより友情が皆無という映画はないでしょうね。男の友情がメインのテーマである、もしくはかなり大きな比重があるものも多い。アラン・ドロンの出る『冒険者たち』という映画がありますが、これ、いいです。

男の友情が、「男女間の愛」や「生命の危険」によって危機にさらされる、という物語的(文学・映画)状況はよくありますね。『シラノ・ド・ベルジュラック』の場合は友情が愛情を抑えてしまうのが「いき」ですね。まだ愛情にも未練があるというストレスが残っているので緊張感が持続しているわけです。しかしその未練を表に出さずに心に秘めるところがいいわけです。また愛情が行き着くとこまでまだ行き着いていないため、ある意味純粋でもある。「男女間の愛」がともすれば利己的な動機がからむのにくらべ、男の友情はより純粋だと見なされることもありますね。

さあ、男の友情はともかく、女の友情は?」(1:07 00/05/29)


中国人「芸術家」の『泉』への放尿について。デュシャンは『泉』でショッキングな効果「だけ」ではなく、物理的な美的構造を再提示していたことは間違いない。つまり『泉』という行為は、観念的な権威の挑戦だけではなく、見方によればそれ自体説得力が皆無ではない美的構造の再認識を迫るものでもあったはずだ。その美的構造を評価しているならば、「デュシャンの便器」は他の便器と比べて特別ではないから、どの便器になにをしても同じはずである。

中国人「芸術家」の行為は、「便器の美しさ」に目を奪われてしまった人の目を覚まさせる意図を持っていたのではないだろうか。「便器の美しさ」はどこにでもあったし、今もある。だがそれを特別扱いすることは、便器という出自を完全に否定してしまうことになる。そうすると便器が「マトモに」芸術化されてしまう。それはデュシャンの意図とは逆であろう。便器を芸術化するのを「パフォーマンスとして」行うことで、デュシャンは芸術を便器化させることにある程度成功したのではないだろうか。

だが、私がデュシャンをあまり特別扱いしたくないのは、同じようなことは禅僧が過去にいくらでも、しかもより徹底的にやっているからである。

「仏に会ったら仏を殺せ」という言葉をご存知だろうか?(22:00 00/05/26)


大雑把にまとめてみた。

モラル 守らなくてはならないもの

エチケット 守った方がよいもの

「いき」 守るとかっこよいもの

「いき」については「あるスタイル、姿勢」を守る、ということ。見栄(みえ)の要素がないわけではない。だがくどくはない。あくまでも、さりげなくなければそもそも「いき」になりえない。見栄が多少あるとしても単なる「見栄え」だけではない。(そのため気づかれない、見過ごされることも多い。)ここでいう「かっこよさ」は非常に気合いの入ったかっこよさである。簡単には譲れないものだ。モラルやエチケットを守らないと社会的制裁がある。だが「いき」はその点、自律的な価値観である。それはすなわち、守るのがより困難ということでもある。(3:12 00/05/23)


マンガは割と欲望に正直なメディアだ。コイン・ランドリーでマンガ雑誌を覗いたり、ネットをブラついて(c)いると「メイド・ロボ」あるいはそれに類似した表象を散見する。ここにはいくつかの要素がからんでいる。少女型ロボット、E.T.A.ホフマン『砂男』のオリンピア、自動人形。ロボットであるがゆえに従順性が期待されているキャラクター。ロボットなのだからどのように扱ってもいいという作者=読者の共犯的欲望である。それに加えて、お手伝い、メイドという人を支配する欲望がある。そのような存在が社会的に希薄になり非現実的となった現在、そのような登場人物を作品に出すべきではないという禁忌はもはやない。多くのマンガでは批判を避け、バランスをとるためか、強圧的な女性のキャラクターも登場させるようである。(ちなみに従順さに関して、日本人女性は従順であるというステレオタイプは現在でも日本以外の国で根強いようだ。)

「人間ではない人間」という観点から、作品の完成度では次元が異なり、テーマとして中心に取り上げられているという点でも異なるが、手塚治虫『火の鳥 宇宙・生命編』他の作品中でのクローン人間のテーマも重なってくる。『ブレードランナー』/『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』のレプリカントでもそうだが、人間と類似した機械の/に対する悲哀は、カレル・チャペック『R.U.R.』で最初にロボットの概念が提示されたとき以来のテーマである。(16:28 00/05/02)


批評性の貧困について。日本の知識人の「批評」が空疎に聞こえるのは、日本の文化に批評の土壌が乏しいからである。「先生の言うことはみな正しい」と思っているか、そう言わざるをえないと思う人にはあらゆる批評は意味をなさない。自分より偉大であるかもしれない存在をあえて疑い、乗り越えていこうとする姿勢が批評なのではないか。大学で、学生の発言を無視する教師と、教師にあえて疑義を呈さない学生の間で批評が可能だろうか。欧米の大学ではどこの馬の骨とも知れない新入生がノーベル賞級学者に初歩的な質問をしても、それは少なくとも無視されることはないだろう。そのような姿勢を受け入れる素地があるからである。そして初歩的な質問ほど根本的な問題を秘めているからでもある。また、どんな偉大な学者も間違いを犯す可能性はある。日本の知識人は馬の骨からの批評を受け入れる準備ができているだろうか?若い人、初学者の問いを軽んずるなかれ。そして若者は恐れることなく権威を疑うべきだ。これは学問の問題と言うよりは文化の問題である。「権威を疑え」これこそ学問の原動力ではないのか?権威を疑わなければ学問は1mmとて前進することはないだろう。批評が成立するためには批評を読み、理解する読者の層が不可欠である。さもなくば荒野に向かって呼ばわるが如しである。批評は自己満足の感想とは異なるはずである。批評も作品同様に読者を必要とする。読者に何も伝ええない批評は空しい。(17:15 00/04/29)


一行詩。

今年の櫻は君を見ることなく散っていった

(12:49 00/04/18)


「いき」について。嫉妬との関連性。嫉妬を生じさせる具体例として、パーティで妻が他の男と踊っているときの夫はどうだろうか。(結婚したことがない私は単に想像してみるだけだが。)嫉妬の抑制だけでは「いき」ではない。少なくとも野暮ではないというだけである。嫉妬を抑制した上で、周囲を唸らせるほどの余裕を見せることが「いき」であろう。そこで嫉妬が抑制できるのは信頼があってこそ可能である。その信頼に「いき」と思わせる思い切りのよさがある。もちろんその信頼はおおっぴらに見せびらかすものではない。第三者がふと気づいて、唸らされるといったものだろう。

さて、ここで面白いのが「いき」は公共的モラルとは直接関係がないということだ。嫉妬が「悪いこと」だから嫉妬を抑えるのではない。嫉妬することが「格好悪い」から嫉妬を見せないのである。(13:49 00/04/17)


人文メーリングリストでの発言より。「カタルシスについて。ドイツの劇作家・演出家ブレヒト(1898〜1956)はカタルシスや感情移入を否定しました。すっきりしてもらうのではなく、未解決の部分を残して観衆に持ち帰ってもらおうということです。確かにカタルシスを無理に起こそうとするとセンチメンタリズム、お涙頂戴に陥る危険性があります。

だが私はカタルシスは娯楽作品(entertainment)には重要な要素だと思う。演劇や芸術作品を見るたびに問題を抱え込まされたのでは肩が凝ってしょうがないじゃないか。その点、ハードボイルド的描写はひとつの方法なのかもしれない。ハードボイルド的な距離を置いた視線で描きながらカタルシスをもたらすことは可能だろうか。可能だと思う。村上春樹はそれに近いことをしている気がする。」(20:37 00/04/08)


「日常生活の美学-『いき』について」の論文要約作成するためにこもってます。(00/1/3) (注: すでに完成しました。)


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