映画の話題

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昨日の話題から映画、テレビ、映像作品に関する話題を抜き出しました。

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『キル・ビル』

別に誤訳探しをするのが趣味というわけでもないが、DVDを見ていて、たまたま見つけたので。服部半蔵が自分の刀に関して「苦行」云々というときに英語字幕がaestheticとなっていた。これはasceticであろう。

またボス田中がオーレン(お連?)にケチをつけるときに言った日本語を、「愛の子」と勘違いした可能性がある。英語字幕は意味が全然通じない。

また日本語字幕も変だ。"The half-Japanese, half Chinese-American army brat..."が「日系・中国系米国人の幹部候補生」となっている。これも誤訳。これでは後のシーンと全然つながらないのは一目瞭然と思うが。"army brat"は、基地育ちの子どもという意味であり、父親がアメリカ軍人というだけである。

これは偶然日本語字幕に切り替えて気づいた箇所だけなので、このぶんではまだありそうだ。

それにしてもルーシー・リューはうまいね。日本人女性の動きをよくとらえている。

(18:18 04/07/03) + (21:43 04/07/10)


『奥様は魔女』

『奥様は魔女(原題: Bewitched)』の日本版リメイクのドラマが来年年明けに始まるとか。Bewitchedは2005年にはハリウッドでニコール・キッドマン主演で映画化されるそうだ。日本版リメイクはその便乗だろう(放送後にちらっと見たがかなりどうでもよい内容)。

日本版リメイクに合わせて再放送されたオリジナル版の第一回を見た。魔法といえば、人やものが消えたり現れたり動いたりするというシンプルな効果だけで、CG全盛の今の発想とはずいぶん違うものだ。映画はもちろんCGてんこ盛りになるのだろう。

長寿番組だから知っている人も多いと思うが、サマンサが夫に向かって「ダーリン」と呼びかけているのは、夫などへの呼びかけとしてのdarlingではない。このひとはDarrinという名前なのである。だからサマンサ以外の人もダーリンと言っているわけだ。

(15:33 03/12/26)


『未来世紀ブラジル』

『未来世紀ブラジル』を見た。数多くの映画に影響を与えている作品だが、見ようと思っていてなかなか見る機会がなかった。有機性を感じさせるダクト(とそれに伴う微妙な効果音)による表現が印象的だ。どこにつながっているかわからない不気味さは、今のインターネットに通じるものがある。巨大武者とお多福面の使い方は、日本人の目から見ても、よくある誇張されたカンチガイの日本文化ではなく、むしろ効果的である。

字幕ではInformation Retrievalが情報剥奪局となっているのは、演出操作しすぎとも感じる。確かに「情報検索局」ではインパクトが弱いかもしれないが、理屈をこねれば、情報というものはすりかえることはできても剥奪することはできまい。

この作品がそれほどダークに感じなかったのは、現実の監視社会・管理社会がSFをすでに追い越しているからだろう。住基ネットが素人目から見ても危ない代物であることは以前にも書いた。ファイアウォールがあるから大丈夫といったたぐいの主張には、耳を疑わざるを得ない。全国の市町村のにわかセキュリティ担当者は全員、ウイルスとワームの違いを定義できるのだろうか。セキュリティにおける「exploit」や「threat」とは何か全員が説明できるのか。侵入者にとってセキュリティホールというものは、ひとつあれば全システムを掌握できる可能性があるということを分かっているのか。「我々に絶対に間違いはない」と主張する政府の面々は、一度はこの作品を見るべきだ。いまさら問題がありますとはいえないという立場はわからないでもないが、放置して済む問題ではあるまい。現状のままでは、住基ネットのお粗末さによる個人情報の流出と、具体的な人権侵害はそう遠からず現実のものとなるだろう。「お上のことはいつも正しい」と信じるひとにもやれやれだが。一匹の「バグ」によるとんでもない間違いは、いつ起こっても不思議ではない。セキュリティの専門家はなぜ黙っているのだろうか。

(17:55 03/12/19)


『エントラップメント』

キャサリン・ゼタ=ジョーンズとショーン・コネリー主演『エントラップメント』を見る(以下ネタばれあり)。イチオシというほどでもないが、まあまあ。

entrapmentには、より一般的な「罠」という意味の他に、特に警察が行う「おとり捜査」という意味がある。最近『CSI』に続いて地上波でやっている『UCアンダーカバー特殊捜査班』のundercoverも、潜入捜査、おとり捜査だ。そういえば『CSI』の最終回でもおとり捜査があった。

『エントラップメント』では、Gin(ゼタ=ジョーンズ)が自分の写真を利用されたことに対して

"That's entrapment."

というと

Mac(コネリー)が

"No, it's blackmail. Entrapment is what cops do to thieves. "

と返すシーンがある。

このやり取りが意味を持つことは後で分かるようになっているわけだ。

オープニングのタイトルを出す時にentrapmentの中のtrapだけを先に出した後で"Entrapment"と出したのは、おとり捜査の意味よりも、一般的な意味に観客の意識をそらすという意図もあったのだろう。

(20:00 03/12/12)


『ロード・オブ・ザ・リング2・二つの塔』

先日『ロード・オブ・ザ・リング2』の"The Two Towers"をDVDで見た。この中でTheodon王が自らの宮廷に入り込んでいた、Sarumanの手先Grimaに対して「貴様のleechcraftがわしに云々("Your leechcraft (原作ではere longが入る) would have had me walking on all fours like a beast.")」というくだりがある。leechcraftとは古代より使われているヒルを使用した医術であるが、ここでは甘い言葉に見せかけてTheodonに取り付きうまく利用していたというニュアンスもあるのだろう。

(17:06 03/11/26)


『マイノリティ・レポート』

『マイノリティ・レポート』のDVDを見ていて、誤訳らしい箇所を見つけた。冒頭の殺人「予定」現場を特定するシーンで、"No maglev"と言っているのが字幕でも吹き替えでも「マグレブ沿線だ」というような訳、つまり"No, maglev"と解釈されている(ここでのマグレブとはアラビア語の「日の沈む国」ではなく、リニアモーターカーのことである)。この訳は変だ。少なくとも英語字幕が正しいとすると、「マグレブは見えない」つまり「高架は見えない」とするべきではないか。翻訳者の受け取ったスクリプトが"No, maglev"となっていたか、映像を見る機会がなかったのだろうか。リニアモーターカーは高架と相場が決まっている。もちろん映像にはマグレブらしいものは映っていない。シカゴに行ったことがある人なら、なぜこのような理屈になるかお分かりいただけるだろう。シカゴでは高架鉄道、通称「エル」が、町のどの位置にいるかを知るてがかりになる。映像ならば、高架が映っていれば、それだけで場所がかなり特定される。逆に言えば「高架が映っていない」ということも、場所の特定につながるわけである。

ついでにいえば、この映画の(いちおう)原作とされているフィリップ・K・ディックはあらためてすごい。『ブレード・ランナー』も『トータル・リコール』もこの人の原作だ。最近のネタ切れ的なSFとは違う、ドラマ性がある作品だ。しかも"Paycheck"というジョン・ウー監督作品もそろそろでるらしい。生前に映画化してもらえればよかったのに。SFXやCGが物足りないかもしれないが。
(23:33 03/09/16)


今日は東京都写真美術館で庵野秀明監督『式日』を見る。以下ネタバレあり。(『式日』公式サイトのネタバレ掲示板

「映画的に」作りこむことを拒否した姿勢はいいとしても、ある種の中途半端な印象は否めない。それとも意図的な中途半端さとして賞賛すべきなのか。私小説的なところがあるにも関わらず、すべてを告白するわけでもない。映像と音の効果は期待以下ではなかったが、期待以上でもなかった。

庵野監督はフィクションからは離れたいが、ノンフィクションはやりたくないらしい。非現実的なインスタレーションに囲まれて住む生活感のない「彼女」。どのように日々生活費を得ているのか。インスタレーションはいつの間にできるのか。そのような答えなき問いを起こさせる第三者的介入がそぐわなさを感じさせる。表現主義的表現として受け入れるしかないが、それが理解されない一般の劇場では受けそうな作品ではない。

携帯電話を持たない私にとっては、携帯電話を持つ人間から疎外されている印象はより強いものがある。目の前で携帯電話を使われることに対する疎外感の表現には共感できるものがある。

私は山口人であることで、方言については評価を厳しくせざるを得ない。なぜか一部だけ、「彼女」が方言を使うシーンがあるが、まるで「オバサン」が話しているようだ。方言指導者の年齢を推定できるかと思ったほどだ。おまけに「彼女」が暴走するシーンでは藤谷文子はあからさまに関西弁になっていた。全体として方言の使用に一貫性がない。(もちろん、方言が強すぎても違和感が残るだけ、というのはよく分かるが。)方言指導は失敗としか言いようがない。それでも、映画の中で出身地の言葉(らしきもの)を聞くとどきっとするものだ。

当初はあくまで若者向けという印象があったが、この映画を見て欲しいのはむしろ、子供を持つ母親である。電話の小言が効果的に不快感を起こさせるように使用されている。また最後のシーンは実際の母親を出演させているのかという錯覚を感じさせるほど、「前日」までのシーンとは一転した場面だった。(そう思ったのは、庵野監督ではそのような試みがあってもおかしくないとは思ったからだが。)

最後に東京都写真美術館は建物は大変立派だが、展示に入場料500円の価値はないと断言する。今後の改善を期待したい。(23:55 00/12/24)


プロデューサーの方から方言を使いわけるのは意図的な演出である旨の説明を頂いた。それでも違和感が残るのは否めないが……。(22:03 01/01/03)


『ミステリーゾーン』(Twilight Zone)はなかなか面白い。近年の多くの映画のように特殊効果に依存しきってしまうのではなく、古典的なスリルとサスペンスが味わえる。X-Files他さまざまな作品に影響を与えているはずだ。単に猟奇的なだけではなく、人間の強さや弱さ、心理を問う作品が多い。Twilight Zoneという極限状態に面した人間の尊厳(dignity)がひとつのテーマとして掲げられていることが伝わってくる。異常現象に接して、恐れ、うろたえながらも、戦おう、道を見出そうとする(まあ良くも悪くもアメリカ的な)姿勢である。逆の見方をすれば徹底して猟奇性を追及できない限界ともとれる。だが後味は決して悪くない。SFやファンタジーの架空の状況設定においてこそ、くっきりと浮かび上がる人間像というものがある。Twilight Zoneはそれを見せてくれる例である。(16:50 00/11/01)


映画のShogunを見たことがある。なかなか愉快な映画である。非日本人俳優と日本人俳優の演技感覚の「ずれ」がたまらない緊張感を生み出している。

海外映画にでる日本人俳優は不適切な状況でお辞儀をする場合が非常に多い。特に相手が目下の場合でもお辞儀をしたりする。(そうすることが状況的に適切な場合もあるが。)またお辞儀をするタイミングがおかしい。そして外国人に対しても無差別にお辞儀をすることもある。実際の状況ではむしろ日本人は外国人に合わせる、つまり握手をすることがはるかに多いだろう。そうするのが「日本的」なのだ。

これらの不自然な日本的行動は、ほとんどが非日本人の監督の指示によるものだろう。日本人俳優自身が不自然だと思っても、監督には抗議しないのだろう。日本人らしく見せようとして「外国から見た日本のイメージ」に合わせているのが皮肉だ。日本文化考証を行う人間を最低でも一人つければ、非日本映画の「変な日本人」を減らせると思うのだが。(14:41 00/07/31)


 "Les Parapluies de Cherbourg"(『シェルブールの雨傘』)を聞く。サントラなのだが、ミュージカル形式なのでせりふ(=歌)入りである。映画(1963)は大学でフランス語を学んだときに最初に見た。(私も、という方も多いはずだ。)もちろんそれ以前に音楽は聞いたことがあった。この映画は、歌舞伎のように一種の誇張された様式が新鮮で面白い。駅での別れは古典的なシーンである。シェルブールはコタンタン半島の端にある寂れた終着駅であるため、このシーンには効果があるわけだ。(これが人気の多い通過駅だったらつまらなかろう。)日本ではジュヌヴィエーヴよりも、マデレーヌの方が人気があるかもしれない。(22:28 00/05/23)


『インタヴュー・ウィズ・ヴァンパイア』を観る。吸血鬼は他を傷つけて生きる人間が誇張された姿に他ならない。負の生、憎しみの伝染である。娯楽映画としては後味は悪くなかったが、むしろ後味を悪くすることができないアメリカ映画のひとつとして非難すべきだろうか?原作者アン・ライスは『ドラキュラ』の「旧世界」的、カトリック的吸血鬼をあっさり否定してしまった。十字架はもちろん、日光の象徴すら薄められている。「新世界」的吸血鬼にとっての神はプロテスタント的な、より抽象的な神なのだ。不死者は「何のために生きるか」という問い、レゾン・デートルを必要としない。その問いを発することが不要であり、無意味なのだ。それは苦に他ならない。それはまた輪廻を抜けられない苦しみに似ている。高橋留美子『人魚の森』『人魚の傷』は八百比丘尼伝説に取材した不死者ものだが、不死者の主人公は不死を苦にして「普通に死ぬ方法」を求める。『愛に時間を』の超長生者ラザルス・ロングはやはり死を求める。ルイが何のために苦しみ多い不死者であることを続けるのかは、映画ではやや焦点がはっきりしない。ちなみに「愛するものを傷つける恐怖」は吸血鬼ものでは設定上『シザーハンズ』ほどは強調できないのは難しいところである。(いったん吸血鬼にされてしまえば少なくとも肉体的には傷つけることは難しい。)(21:50 00/04/24)


人文メーリングリストでの発言より。「「いき」であるものは少ないけれど、別に「いき」でなくてもいいものはたくさんあります。

さて、愛の抑制は「いき」です。ストレスがかかっている状態です。「いき」論文で挙げているのはシラノやカサブランカのリックなどです。そこで嫉妬をすれば普通野暮です。かわいい嫉妬もあると思いますが。アメリカ映画が野暮になる可能性がある場合は抑制がぜんぜんない場合ですね。えーと、一般には不評だが有名なので例に出しやすい『タイタニック』では、ローズの夫は野暮ですね。見苦しいですね。それに対してジャックはとくに「いき」でもありませんが、ローズに執着していない点ではかなりましです。

嫉妬をしたいのをぐっとこらえて一枚上手を行くのは「いき」だと思いませんか?」(00/4/16?)


人文メーリングリストでの発言より。「トラウマは人間(悲劇ではその主人公)にとっての精神的な苦痛の体験、「こころの傷」です。トラウマは主観的なもので、その客観性には限界があります。(記憶は常に変形されます。美化はその一例ですね)

トラウマは本来忘却することで消滅する(治癒)するものですが、トラウマが強烈過ぎると忘れるのに失敗することがあります。ある個人がトラウマを言語化し and/or 誰かに語って再体験することでカタルシスが起きます。そこでカタルシスが起きれば正常に忘れることができます。

悲劇を見れば、主人公のトラウマを追体験することで同様の効果があります。ただ、自分自身の体験を言語化する方がより直接的で確実な効果があるような気もします。これは私なりの捉え方です。それほど一般的な見方からかけ離れてはないと思いますが。言語化するという行為は客観化するということでもあるのかもしれません。

復讐の快感は誰しも知るところです。復讐というのはカタルシスを強制的に起こす方法のひとつかもしれない。シーソーですね。ただし傷をひろげるだけの場合もある。あるいはカタルシスに失敗することも少なくない。

ここでひとつ映画をお勧め。セルジオ・レオーネ監督の名作中の名作『ウエスタン』(1969, Once Upon a Time in the West) いつもハーモニカで同じメロディーばかり吹く、無敵の早撃ち男のもつ過去とは?最後の最後まで見ないと復讐のポイントが分からないけど、だから面白い。これぞ映画です。見なきゃだめ!(ポスター)悲劇というよりは復讐の快感のほうが強いが、とにかくすっきりします。」(20:16 00/04/07)


暴れん坊将軍、遠山の金さん、水戸黄門。これらには武士の町人願望(作品中)と町人の武士願望(制作者と視聴者)の両方を見ることができる。社会の階級を横断する変身願望なのだ。将軍ぽい将軍は少しも「いき」ではない。奉行もわざと町人の振りをする。水戸黄門もあえて先の副将軍であることを隠すのがいきなのだ。できれば出したくないが、ああ、もうしょうがないっていうんで最後に印籠をだす。最初っから印籠でいばっていちゃあ面白くない。(00/2/25)


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