文化の話題

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炭酸水いろいろ

 先ほどのヨーロッパ旅行のあいだ炭酸水をずいぶん飲んだ。英語ではcarbonated water, fizzy, spaklingといろいろ呼び方がある。ウェールズでは地ビールならぬ「地水」を売っていた。イギリスでは炭酸が入っていない水の割合も多いように感じたが、他の国では炭酸入りと炭酸なしは半々のようだった。スロヴァキアでは微炭酸も売っていた。安い国では500mlが80円以下。安いところはもっとやすい。パリの中心では300円以上するところもある。スーパーや、小さい商店で買えばもちろん安いが、それを探すのが一苦労。そもそも自販機の数は日本より圧倒的に少ない。

なぜヨーロッパでは炭酸水が飲まれるのか。今年のヨーロッパは確かに異常に熱かったが、店などで売っている飲料は冷蔵庫に入っていても日本ほど冷えていない。またボトルをそのまま持ち歩くことが多い。炭酸が入っていれば多少ぬるくなっても我慢できる。だから炭酸水が喜ばれるのかもしれない。

あれこれ飲み比べたがペリエがよいように感じた。炭酸が非常に強い。ペリエは、日本のスーパーなどではあまり見かけない。どういうわけか突出して値段が高い。どこかが独占しているのだろうか。(17:16 03/09/08)


定義について。

定義が苦手な人が多い。また定義とは何のことか(すなわち定義の定義)そもそも理解されていないことが多い。映画『リアリティ・バイツ』(1994)では、ウィノナ・ライダーが就職活動に行った先で面接官に「『皮肉』を定義してみて」と言われてしどろもどろになる(もちろんこれ自体が皮肉な状況なのでおかしいのである)。私が言いたいのは、アメリカ人でもやっぱり「定義」できないじゃないか、ということではない。日本的な状況に置き換えたとき、「〜を定義する」というのがアメリカ人にはともかく、日本人にとって非常に異質な作業だ、ということである。

定義とは、物事をどれだけ、どのように考えているかの尺度であり、その人のものの見方を知る手がかりのひとつにもなる(だが多くの日本人は何を聞かれても即座に定義できないので、これは当てはまらない)。定義とは絶対的な見方ではなく、その人自身の相対的な見方である。だが相対的な見方ができない人には、「定義とは『ひとつの見方』である」ということが理解できない。

定義する、ということは学問の基本であるが、日本の学校で「定義する訓練」を行っているところはおそらくきわめて少なかろう。我々はあいまいに考えることに慣れきっているのだ。

(22:04 03/06/11)


『ジーザス・クライスト・スーパースター』を見る。ここ半年見た映画では5本の指に入るかも。形式はともかく内容としては非常にオーソドックスなキリストの解釈と言えるだろう。これは「キリストの映画」というより「ジーザスの映画」と言うべきかもしれない。冒頭のユダのキリストに対する非難の歌が印象的だ。こういう映画が作れるのがキリスト教文化圏に息づく「批判精神」だと思う。キリストへも神へも非難の言葉を遠慮なく浴びせ、問いただす(ストーリー的にはあくまで従来の解釈の範囲から踏み出すというほどでもないわけだが。ヨブ他、聖書にもともと神への疑いは最初からあるのだ)。禅仏教、禅問答にも似た精神があるはずなのだが、昨今はすでに死に絶えたようだ。

(22:40 03/01/22)


日本人に生まれるというのは、ある意味では幸運なことかもしれない。物価は高くてもモノはあふれている。陰惨な事件が増えてきたとはいえ、治安はまだいい方だ。紛争をしているわけではない。

だが、日本人の幸せというのは、他の国の人の不幸せに基づいている面があるようにも思える。言葉自体は目につくようになっても、「外国人犯罪」は他国に比べるとはるかに少ない。これは、そもそも外国人を徹底して入れないようにしてきたからだろう。どれほど困っている人であっても。「人種問題」があるといえるほど、他の人々を寛大に受け入れてきたわけではない。そもそも問題として浮上する機会すら与えられないのだろう。

外国人にとって興味深い国であるとしても、日本ほど外国人が居づらい国も少ないと思う。日本人は外国のモノには興味があるが、ヒトにはそれほど興味を持っていないようだ。あくまで自分たちだけがリッチになろうとすると、悪感情をもたれたり、狙われたりしても仕方あるまい。ODAをすれば片が付くという問題ではないだろう。

(18:12 02/08/12)


「日本語の標準論理構造」について。

日本語では他の言語と比較して、論理的な構造が緩やかである。だがこの特徴は、日本語を他の言語に翻訳するときには問題になる。

ここで日本語の「標準論理構造」というものを考えてみたい。これは、単語と文法を機械的に適用しても意味の通じる訳文が得られる程度の、最低限の論理的な文章構造を意味する。要するに「そのまま外国語に翻訳できる日本語」である。(この点が非常に重要なのだが)「標準」とは、日本語以外の諸言語と同じ程度の論理的文章構造を持つという意味である。標準論理構造は、ほかの言語でも問題にできないないわけではないが、このような標準論理構造をいま必要としているのは、日本語にほかならない。逆に言えば、日本語の論理構造は標準以下ということである。

標準論理構造とは、それほど特殊なものではない。具体的には、以下のような点が含まれる。

  • 文章の目的が明確である

  • 結論が明確である

  • 文法的な規則に沿った上でさらに論理的である

  • 修飾関係や指示語の関係に曖昧性がない

  • 文(センテンス)・段落・文章の構造がある

  • 必要に応じて語義の定義がされている

  • 単語の選択が適切で、なおかつ文章内で一貫して使用されている(意味の範囲が変化しない)

  • 論理的に孤立した語句・文・段落・文章がない

  • 主語が省略されていてもその指示内容が明確である

  • てにをはが正しい

少なくとも欧米語においては、このような論理構造の多くは文法の一部として組み込まれているため、改めて論理構造を意識する必要はほとんどない。文法と論理は(常にではないにせよ、日本語と比較すれば)非常によく一致している。つまり文法的に正しいセンテンスの多くは、論理的にも正しい(もちろん文法的に正しくて論理的に正しくないセンテンスを作ることができないわけではない。実際に書かれる文章が比較的論理的であることが多いというだけである)。だが日本語では、文章の論理構造は文法にほとんど規制されない。日本語では論理と文法は別物なのである。このため論理構造をしっかりと意識して組み立てる必要がある。

ある文章が標準論理構造に沿っているかどうか、簡単かつある程度客観的にチェックするには、翻訳ソフトに翻訳させてみればよい。翻訳ソフトは機械的に判定できる範囲で論理的に文を解釈しようとする。もちろん翻訳ソフト自体の方式や精度にもよるが、論理構造が明確であれば、よりましな翻訳結果が得られるはずである。このことは、人間が翻訳する場合でもより正確に翻訳できるということでもある。

すべての文章に標準論理構造が求められているわけではない。日本語の文法としては正しくても、標準論理構造に沿っていない文章、沿う必然性のない文書はありうる。たとえば文学作品などにおいては標準論理構造に従う必要はないだろう。宣伝文句などでは論理的であるかという点より、いかに耳目を引きつけるかといった点の方が重要であろう。また会話では、不十分な論理を補うだけの前後・周辺の(時間的・空間的な)文脈があるため、標準論理構造に厳密に従う必要はあるまい。だがある種の文章では、標準論理構造は不可欠である。特にすべての学術論文は、標準論理構造を持った日本語で執筆されるべきであろう。また法律や技術文書、公的文書も標準論理構造を満たすべきだろう。

標準論理構造が必要とされている最大の理由は、現状のあいまいな日本語と、その日本語に基づく思考では、世界に日本を説明することができないからである。だからといって英語ですべての思考をするわけにもいくまい(論文を書くには日本語よりはるかに適している言語ではあるが)。思考の基礎と、必要に応じて他の言語への翻訳の基礎となる日本語を我々は必要としているのではないだろうか。

(0:46 02/06/22)


もう十日以上前の話題だが、Yahoo!掲示板で成人式について一考。

「長い独り旅をしよう

バンジージャンプの例を挙げておられた方が何人かいらっしゃいましたが、『精神的な区切りとなる儀式が必要である』という点では、私も賛成します。もちろんバンジージャンプそのものである必要はありません。

現在一般的な地方自治体の形式では、『空しい儀式』として、新成人も大人も意義を認めがたいと思う人も多いでしょう。そもそも、ある日突然自動的に大人になれるというのは、話がうますぎると思います。成人式でもらったテレフォンカードで大人の自覚が芽生えたら、大したものです。自覚が得られるかという点では、自治体の成人式は逆効果でしかないでしょう。大人の自覚というのは、少しずつ育つはずです。およそ大人になるための準備をする過程が、社会的にも個人的にも欠けているのが問題ではないでしょうか。すべての儀式が空しいわけではないはずです。強制的な押し付けだから空しいのです。本人が自覚して行う儀式であれば、けじめとして有意義なものとなるはずです。ただし特定の日に突然「大人になれる」のではなく、そのためには一定の期間を要するでしょう。

私は、やがて成人を迎える年齢の人たちが、1ヶ月ほど長い独り旅をするのがいいのではないかと考えています。独りでいろんな場所を歩き、いろんな人と巡り合うことで、大人になるための準備期間とできるのではないでしょうか。一週間程度の「パック旅行」では無意味です。自分で計画を立てるのが肝要です。特別にお膳立てをする必要はないでしょうが、ユースホステルをはじめとした各地の宿泊施設での優待措置、また交通機関では青春18切符の拡大版を準備するなど、社会全体ができることは多くあるはずです。日本国内に限る必要はありません。ヨーロッパではグランド・ツアーとして、古くから貴族の子弟が旅行をする習慣がありました。
http://www.machinami.or.jp/Woonerf/157/  など)

今のヨーロッパでは、インターレイルという安価な鉄道パスを使って長期間の旅をする多くの若者が見られます。

みなさんは、どうお考えですか?」

(18:31 02/01/26)


扶桑社の『新しい歴史教科書』と称する本を書店で見た。このような本がでるとは、世も末である。主観的にして一方的で、自慰的、自己満足的、自己欺瞞的な本である。一書籍として日本人の意識を強調するのはかまわない。だが教科書として、この本は異様に偏向している。日本の教育システムではおよそ複数の歴史的な一次資料を比較することなく、教科書会社の作る単一の教科書に依存しすぎている。副教材と称するものも、教科書会社の視点であらかじめまとめられている。従って生徒が自らの歴史的認識力、批判能力を磨く余地がまったくない。主体的に判断できず、読んだものをただ鵜呑みにして受け入れるだけである。このようなシステム自体に問題があることはもちろんだが、この現状のシステムの上にさらにこの極度に歪曲された本が使用されるとなると、その結果はおぞましいものがある。

共産主義とファシズムを並べる章が空々しい。どちらも全体主義の一種である日本の軍国主義とファシズムが同じ章で述べられるべきではないのか? 「大日本帝国万歳と百万遍唱えましょう」とでも書きかねないような本だ。

工芸品にしても、日本の美術は西洋のartsとは本質的に異なるにも関わらず、同一の視点で断定的に比較しようとしている。美術の本質に対する無理解がなせるわざである。

「日本は昔っから西洋と同じレベルで、エライ国ナンダ、ツヨイ国ナンダ、ウツクシイ国ナンダ」という陶酔に浸っている。これでは客観的な比較や判断は到底望めない。

私は日本文化を愛し、尊重するがゆえに、このような欺瞞的な本が教科書として採用されることに断固反対する。この本は日本に対する侮辱である。(20:41 01/07/02)


江戸の湯屋は、実際には入込湯と称して男女混浴がほとんどだったそうである。落語の「湯屋番」などでは男女が分かれているが、特に明治以降、「近代化」を目指すために混浴の実態は隠蔽されていったということは大いにありうる。1791年の松平定信による「男女入込停止」のお触れ、1869年の東京府による禁令などがあったそうだが、いつごろ解除になったのだろうか?
湯屋−あるいは浴場は、不特定多数の前で裸になることが問題にならないという意味で特殊な空間なわけである。少なくとも江戸では、それが男女間であっても問題にならなかった、ということらしい。湯屋を一歩出てしまえば、通常の「たしなみ」が求められたのだろう。海辺やプールもまた、水着でいても他人の視線を気にしない場という意味では特殊である。同じ格好は街中では見られない。あたりまえのようでも、考えてみれば面白い。なぜそうなるのか、というのが「そういう場所だから」という場所性に強く規定されているのである。こういう文化の一部の習慣、価値観の変化というのは実に興味深い。

ふと、京王線の「女性専用車両」を思い出した。満員電車というのは、考えようによっては混浴よりはよほど特殊である。今からおそらく20年もすれば、男女が同じ車両に乗るのは常識はずれと思われるようなことになるのだろうか。 (1:25 01/06/09)


日本人の欧米に対する態度は常にアンビヴァレント、両価的である。外国好き(xenophilia)と外国嫌い(xenophobia)の感情が段階的に交互に現れるだけでなく、同時に存在する。

日本人が外国に適切に接することができるようになるまで、前段階がいくつかある。「拒絶」→「崇拝」→「自負」というのは、一つの基本的なパターンと考えられる。(無論、このほかにも可能性はあるだろう。)このパターンは個人としても、日本人全体としてもある程度適用できそうである。どのレベルも他のレベルと複雑に重なりあう部分がある。注意すべきは、これはあくまでも「前段階」であって、未熟な状態ということである。また、どのレベルにおいても常に知識不足が見られる。

拒絶の段階は、鎖国や、いわゆる「攘夷」などに対応する。問答無用で外国嫌いということのようだが、(特に欧米に対しては)劣等コンプレックスが敵意に転化する。外国文化を全体的に拒絶しているため、これ以上の理解が進まず、最悪の場合は鎖国のように、拒絶の状態は悪循環的に極めて長く保たれる。

外圧に耐え切れず、拒絶が不可能とわかったとき、それは容易に崇拝の段階に切り替わる。(拒絶を経ない崇拝も多い。)崇拝は表面的には最も一般的な態度である。だが意識の深層では拒絶を引きずっている。崇拝はモノマネ行為を生じるが、これはもちろん十分な外国の文化理解に基づくものではない。外国の文化を十分に消化した上で取り入れるのならば、それは崇拝ではなく学習といえよう。だが、実際には十分に消化されることはほとんどなく、目の前にあるものに圧倒されるがままにモノマネせずにおれない場合が多いようである。

次の段階は、崇拝の時期をしばらく経た後に発生する自文化(日本の文化)への自負である。(自負に至らない崇拝も多い。)自負は拒絶に似ているが、自文化へ意識を向けた点でいくらかましである。だが、再度注意すべきは、これはあくまで前段階に過ぎず、自文化に対する、そして外国文化に対する中途半端な理解から生じるものである。このレベルでは、「日本への引きこもり」状態であり、自画自賛であり、外国を不当に貶めて、正しく評価できない。一層奇怪なことに、自負はしばしば外国崇拝と同居している。

日本の少なからぬ政党、そして不寛容かつ無神経な某都知事などはこれらの三つの前段階をうろうろしている。

適切な接し方には、感情的な気負いなしに、批判精神を持って自文化と他文化を冷静に比較し、学習できることが条件となるだろう。(2:53 01/06/05)


『世界遺産 グスク紀行−古琉球の光と影』を読む。グスクとは沖縄の城のことである。この本は元は琉球新報社の連載だから、ヤマトンチュには解説がないとよく分からない個所もある。人名地名のフリガナが初出時にしかつかないので、そこを見過ごすと読みが分からなくなる。

ひとつ、面白い発見があった。この本は古いグスクの解説だから、自然に沖縄、というよりむしろ琉球の歴史に触れることになる。これまで、沖縄は平和を愛する人の島だ、という意識が私にはなんとはなしに植え付けられていた。中国への冊封、薩摩藩の「琉球征服」、日本の「琉球処分」、アメリカによる占領という支配を経てきた沖縄は「被害者」というイメージがある。事実、沖縄の外部との関係を考えれば被支配の歴史は長い。だが、1609年の「琉球征服」までの琉球の歴史自体は、他の国々同様、けっこう血生臭い歴史である。城は戦いの道具であり、支配者の場所である。勢力争いも、裏切りに次ぐ裏切りも、政略結婚も、兄弟や同族間での争いもある。中央政権が周囲の島々を武力制圧することもある。王自らが小島を従えるために出かけてゆくのである。(そのような歴史があったからといって他の国の支配が正当化されるわけでもないが。)当然といえばそうかもしれない。だが、その事実について具体的に読んで沖縄にもっと親しみがわいた気がする。

南走平家の伝説や、三線から津軽三味線に至るまでについて考えるのも、歴史的・地理的な「つながり」というものを感じて面白い。(15:39 2001/03/26)


唐突だが、学習指導要領とタレントは、どちらが生徒に対して影響力があるだろうか。学習指導要領の影響力は教師の授業を通した間接的なものである。判断能力と良識のある教師は指導要領を鵜呑みにすることなく、自分で適宜判断するであろうから指導要領の影響力は弱まる。一方、テレビに出るタレントは大衆に、特に子どもにはより直接な影響力がある。(タレントという存在は本人の「才能」はともかく、作られた存在だが、一般的に演出者はその人工性を隠し、視聴者はその人工性を忘れたがるという共犯関係が成立している。)影響の内容はさておき、どちらも一種の洗脳であることには間違いない。文部省が実際的により強力な洗脳を行うためには、学習指導要領の精神を体現したタレントを育成し、テレビに出演させればよいのである。お手本を見せてください、というやつである。(20:52 2001/03/22)


ここに実に興味深い事実がある。

「東京発の英字情報タウン誌」である『Tokyo Classified』をめくってみた。(情報タウン誌よりはタウン情報誌の方が一般的なような気もするが、それはさておき)「交際募集」の欄には、ある種の人間の本音が現れている。そこには、間違い電話に気づかないふりをして個人的な告白を聞いているような後ろめたさがある。だが、それはもちろん錯覚である。というのもここに掲載されているのは個人から「誰か」に宛てられたメッセージであり、それを読むこと自体にはなんら後ろめたいことはないはずだからである。

"Women Looking for Men"では66名の女性のうち、日本人男性のみと限定して交際相手を希望する女性は人種を問わず1人もいない。「西洋人か日本人男性」を希望する「キュートなアメリカ人女性」が1名、「ガイジンか日本人男性」を希望する「ヨーロッパ人女性」が1名。ヨーロッパ人女性がヨーロッパ人男性を探すのが2名。他に「人種」に言及しないのが数名。38名が欧米人に明確に限定して交際相手を希望する日本人女性である。(人種を指定していない場合、北米とヨーロッパ各国指定は欧米人指定とみなした場合。)スウェーデン人指定という方もいる。私が仮にデンマーク人やノルウェー人だったらこのような指定があれば悩むだろうか。「似たようなもんじゃないか!」「あたし、スウェーデン人じゃないとだめなの」これはお話のネタになりそうである。

"Men Looking for Women"ではこの現実を反映してか、日本人男性は全体のわずか6%に過ぎない。現実には欧米人女性との交際を求めている日本人男性はもっと多いと予測されるが、相手にされないようだ。くどいようだが、日本人男性のみ指定の女性は66名中1人もいない。1人も! お呼びではないのだ。

また、私はこれを読んで、「美人」や「ハンサム」が世の中にはかくもあふれているものであるか、と感嘆したのであった。(20:07 2001/03/16)


日本人は批判を避ける。

「批判しないでください」

これは"Sorry, Japanese Only"ほどではないが、日本語のWebサイト上でしか見られないことばである。("Sorry, English Only"と書かれた英語サイトがあったら教えてほしい。)非難・中傷と批評・批判の区別がついていないのである。

非難・中傷とは、感情的かつ一方的で不公平、非建設的な否定的意見である。これに対し、批評・批判は、理性的に諸条件を公平かつ客観的に見たうえでなされる、建設的な意見であるべきである。「あるべき」、というのは、実際には、書く方が批評しているつもりが単に中傷しているだけになったり、読む側の頭に血が上りやすいために、第三者の意見がすべて非難に受け取られることが多いからである。批判という語は多く「否定的な批評」である。これが非難に近いことは否めない。だが批判を避けていて向上があるだろうか? 我々は甘ったるいお世辞を聞くのが大好きなのだ。 ことさら「批判を望む」とでも書かなければ、自己満足・自己憐憫の井戸から抜け出すことなどできない。

批評は肯定的・否定的な意見の両方が含まれるときに客観性を帯びる。批評に肯定的・否定的な意見のどちらか一方しか述べていなければ、その妥当性に疑いの目を向けられてもしかたがない。客観的に・冷静に状況を分析し、長所と短所を考えるという合理性は、日本文化の伝統ではなく欧米から学んだものである。だがこの客観性は「後天的文化」であるゆえに徹底していない。つい「批判しないで」と書いてしまうのである。

海野十三「火山島要塞」は、基本的に旧日本軍を最高の軍隊と持ち上げ、アメリカ軍をけなす軍国主義賛美の作品である。だが十三の作品では、ときおり事態のより現実的な把握が顔をのぞかせることがある。

「子供のように若いホーテンス参謀が出した、怪力線の『中継艦』の案はたいへんほめられた。…

それまでに、それぞれ、名案愚案を出してどれもだめになった参謀長や参謀たちは、さぞ顔を赤くしたり、きげんをわるくしているかと思いの外、みんなにこにこしている。あんな年下のホーテンスに名案を出されて、おれの面目玉はまるつぶれなどと考えている者はない。みんなで力をあわせて、いいものがとび出せばいいのだ。一番いいものを採用すれば、それが戦果をあげることになるのだ、と彼らは考えている。」(「火山島要塞」『海野十三全集』第10巻、p.272)

これはアメリカ軍で「新兵器」の「怪力線」を中継するための「中継艦」の案が出されたときの場面である。怪力線自体の荒唐無稽さはさておき、アメリカ的手法の合理性というものが見事に示されている。(イギリスではこうはいかないかもしれない。)ここでは十三はアメリカ人の合理性を認め、賞賛しているのではないか? 日本軍の精神主義を暗に批判しているのではないか? 若い日本人のアイデアが採用されることなど、一般社会ではもちろん、ましてや軍隊では決してなかっただろう。そして今もない。(23:17 2001/03/13)


『ふるさと文学館』収録の伊藤桂一「回天」を読む。兵器と人間の一体化という極限状況の描写が実に印象深い。読みがいがあった。若い兵士と、高校野球の高校生には年代という以上に何か通じるものを感じる。どちらも安易に美化されやすいという点もある。日本人に太平洋戦争が「侵略戦争」という意識が薄いのは、徹底した美化が行われているからだが、戦場の兵士には余裕も選択の余地もない。政治家の論理に対する早期の警戒感が必要なのだろう。戦争が始まってから状況を覆すのは難しかろう。個人の局地的な事情に共感はする。だが、それを侵略戦争の正当化に結びつけるのは的外れである。(欧米が植民地化を進めたから日本の植民地化も正しい、という論理が認められるだろうか?)外交的に孤立しないこと、太平洋戦争を起こさないことは不可能だったのか? 日本人の外国人嫌い(xenophobia)と外国人好き(xenophilia)が同居するアンビヴァレンスは五十年前、百年前と異なるのか? 「黒人は苦手だがR&Bは好き」という心理は何なのか? この不安定なアンビヴァレンスは警戒心を呼び起こさせる。表面だけの異文化理解と好意は、憎しみに転化するのも容易だろう。

「日本人らしさ」は開国と同時に失われ(敗戦でさらに拍車がかかったのだが)、今や「日本人らしい日本人ほど日本人らしくない」という逆説的な状況である。一方では中途半端な理解に基づく、勘違いした不寛容な「日本人らしさ」を求める動きもある。だが、それは国際的な孤立に逆戻りするだけである。不寛容さの裏には根強い外国人嫌いの心理があるにも関わらず、語彙の半分以上がカタカナ語だったりする。そういう人間に限って脈絡なく欧米人をポスターに起用したりする。製品名をすべてカタカナにしたりする。不正確かつ無意味な英文をTシャツに入れていたりする。明確な意図がある場合には文句はない。ただそれがあまりにも安易に行われるのはうんざりする。相互理解が不十分ではないのか? 世界から得るものだけ得て、自分たちは金以外の貢献をしない。理解してもらおうという努力をしないことが、開国百年経っても孤立をし続けている理由ではないのか? 金しか出さない日本人がどれだけ世界から理解されず、孤立していることか。日本が世界に貢献すべきは金でも工業製品でもない。

日本は、文化で世界に貢献できなければバランスがとれない。

(文化とはアニメやゲームだけを指すのではない。その価値を決して否定するわけではないが。)

異文化の相互理解を踏まえた「日本人らしさ」こそが必要だと考える。(3:07 2001/03/08)


大国魂神社の初詣でを見物に行く。実家で三社参りに行ったので、ここに来たのはあくまで見物のためである。もう三日で、おまけに日が沈む頃というのに参拝客がぎっしりと行列を作っている。この時期、この時間では着物を着た女性は少ない。
参拝する人を見るのもなかなか飽きない。老若男女が思い思いの方法で参拝している。若い女性が一人、後に延々と続く列を一顧だにせず、合掌してなにやら一心に祈っている。

見れば二礼をせずに二拍手して合掌したまま頭を下げる人が多い。また二礼して二拍手したまま合掌して礼をする人も多い。二礼も二拍手もせずに合掌のみをする人もいる。礼拝の時間は数秒から数分まで様々だ。どの場合でも最後には合掌をする人が大多数である。

合掌はキリスト教でも見られるが、主に仏教の作法であろう。もとインドの作法が仏教に取り入れられたものであり、両手の平を合わせるのは堅実心合掌というそうである。

二礼二拍手一礼をした人はごく少なかった。数十人を見ていたがそうしたのは二人くらいだった。この場合、祈念するのは最後の一礼の時になるのだろうが、頭を下げた姿勢を保つのは疲れる。かといって頭を下げないままでは手持ち無沙汰なのでつい合掌をするのだろう。また大多数が合掌しているのを見て、長いものには巻かれてしまうのであろう。神社が様々な作法を許容するのはなぜだろうか。おそらくは戦前戦時中でも(公式的な作法とは別に)一般人の「実際の」参拝作法に合掌は取り入れられていたものと考えられる。年配の人でもほとんど例外なく合掌していたからである。

イスラム暦12月にメッカを訪れるムスリムは100万人以上だそうだが、明治神宮のみの参拝者でも正月三箇日で300万人を超えるという。全国では数千万人に上るであろう。そしてその同じ数千万人が約一週間前にクリスマスツリーを飾り、クリスマスケーキを食べ、クリスマスプレゼントを交換したのだ。毎年のこととはいえ、この日本人の柔軟さには限りない興味をそそられる。(22:03 01/01/03)


西洋の到来以前にある程度の発展を見せていた資本主義経済を別にして、西洋の普遍的な主義のいくつか−キリスト教、民主主義、そしてマルクス主義は日本にわずかしか根付かなかった。マルクス主義の信奉者は社会の「理想」を見たが、日本の文化的特性はしばしば軽視されていた。近代以降の日本は「等質化社会」であった。これは「平等な社会」ではない。ある意味では天然共産主義的な社会統制が文化によって行われている。この文化による強力な支配は、欧米に見られる、常に革命を可能にするだけのエネルギーを秘めた社会の動的な発展過程とは異質のものである。

日本における全体主義は文化に強固な基盤をもつ、文化的全体主義である。日本の社会構造は、薄いが非常に安定したいくつもの層の積み重ねと見ることができる。これをミクロ階級と呼ぼう。経済的な階級というよりは社会の支配制度としての階級である。発達心理学的立場からは、この年功序列的な階級意識は軍隊制度の名残を持つ学校の「学年」という(擬似)同年齢集団において植え付けられる。これは会社組織の中に受け継がれる。実力は度外視され「年齢」が常に重要な問題とされる。人間関係の初期の段階で、年齢を確認しないと不安にとらわれるのである。ミクロ階級と年齢集団はまったく同じではないにせよ、年齢集団は大きな意味を持つ。階級が細かく分断された階層構造を成しているため、日本では他の国と同じ方法で共産主義的革命は起こりえない。労働者と資本家という決定的対立の構図にはならない。非実力主義の年功序列が支配的であるがゆえに時間が経てば、地位はある程度向上する。これを「平等的である」というのははばかられる。

「対等な人間関係」という考え方は明らかにアメリカの影響であり、日本では極めて希薄で、あってもうわべだけのものにしか過ぎない。アメリカでの個人と社会の関係は、異質化、個人化である。個人は自分の意見と価値観を持つように育てられる。自分の意見を持つ個人がまずあり、その多様な個人の集団が社会を構成する。アメリカは異なる背景を持つ個人があえて対等に付き合おうとする。だが同じになること目指して交流するのではない。個人として他と異なる面を主張する。社会層は不変のものではなく、個人は社会層を活発に横断する。

日本での個人と社会の関係は、等質化、集団化である。ミクロ階級を含む集団が学校、会社やその下部組織などで形成される。この集団は単に制度としての存在以上に存在感がある。日本での人間関係では等質化が志向され、集団からの逸脱は許されない。一部の不運な人間は集団意識を維持するためのスケープゴートとしていじめの対象にされる。この等質化は個人として「同じレベルになること」ではなく、特定の集団への帰属を強制するものであるため、ミクロ階級はその集団内で保存される。(21:17 00/12/12)


現代の日本人にとっての「ホンモノ」は何か。

欧米からの借り物が多すぎる中で、その借り物をただ捨てるだけでは単に何も残らない。欧米から完全に訣別する必然性はないし、また不可能であろう。たとえば、アメリカの政治的・文化的存在を単純に排斥する人間は、自分がアメリカという存在からどれだけ影響と恩恵を受けているかを自覚していないか、忘れていることが多い。近代・現代という時代に、モダニスト・プロジェクトに、日本人がどれだけ積極的に関わり、貢献したといえるだろうか。ないわけではないが、多いとは決していえない。逆にどれほど影響と恩恵を受けただろうか。あまりにも多すぎる。もっと悪いケースとしては、そもそも日本にとってのアメリカの存在を批判的に考えることすらできない人もいる。

政治は文化の流れを変える。敗戦によるアメリカ文化の流入がよい例である。だが、逆もまた真なり。文化が未成熟で他文化を消化しきっていなければ、政治もそれに応じて未熟、稚拙、金権的、封建的、非民主的にならざるを得ない。国会は野次の応酬で、コップの水がまかれる。幼稚園児の喧嘩か? 文化に基づく民主主義の基盤が未成熟な日本では、民主という言葉は空疎な看板でしかない。

欧米に依存せよというのではない。欧米を排斥すれば日本人は自立できるとカン違いした、誤った「日本人の誇り」が多すぎる。そうするためには日本人はあまりにも幼すぎて、依存しすぎている。自分では独創性、個性的な発想を育て、新たな文化を創造することができないくせに、他には不寛容なのである。南京虐殺が嘘だったら、君が代を歌えば、日の丸を揚げれば、それで日本人の誇りが取り戻せるのか? 断じて否。日の丸・君が代は日本人の誇りとは無関係の表層的な事でしかない。増して強制的に洗脳するなどは逆効果でしかない。そう、「義務化」というのは早い話が洗脳である。あなたは洗脳されたいか? 私はお断りである。それともテレビの宣伝や町に溢れる看板で日々洗脳されているのに、ひとつくらい洗脳が増えても大したことはないのか?

新旧ともに文化を育てることができなければ、日本人の誇りなどはありえない。(文化を育てる、というのもまた多様に解釈される恐れがあるが)

一方、対極的な無関心はもっと多い。借り物やニセモノをわきに置くと、ホンモノが残らない現代の日本は寂しすぎる。日本は欧米の不完全な複製品(コピー)のままなのだろうか。(20:10 00/12/08)


倫理の基本問題。人文学メーリングリストの発言に加筆。

「さて、殺すのを禁じること、誰かを愛することには理由を挙げる必要はありません。と私は思います。

いやだからいや、好きだから好き。

もし「殺してはならない」という禁忌に理性的な理由を与えてしまうと、その理由が何らかの原因で変われば、殺すのは大丈夫、ということになるでしょうか?

倫理は悪くすると「なぜか」を考えることでこの素直な感情から離れていってしまうことがあります。倫理をあまりに理性的に考えることで、本来持っていた素朴な感情が失われることがあると思うのです。倫理学者は必ずしも倫理的であるとは限りません。

キリスト教的神の存在についても同様のことが言えると考えます。神の存在を理性的に考えることで、神が本来持っていたものが(客観的には良かれ悪しかれ)失われます。というのが私の立場です。

しかし、それでも知的好奇心から倫理について理性で考えてみたくなることはあります。この場合、イノセントな立場からいったん離れることが必要になるでしょう。」


Reseau d'Email Francais-Japonaisという日仏交流のメーリングリストがある。そこでルーズソックスについてマイルドな問題提起をした。いくつか積極的な反応があった。サムライがいるとばかり思ってやってきた日本でルーズソックスを発見したフランス人たちの驚きやいかに。

ルーズソックスは一年中履かれている。単に「かわいいから」という理由ではなく、「みんなと違う自分はイヤダ」という意識がルーズソックスを履く最大の理由であることは容易に推察される。夏は水虫にならないのか? 水虫を我慢してもみんなと同じがいいのか? (いや、みんな水虫になるからそれも共有したいのか。「あたしだけ水虫じゃないなんて、いやいやっ!」)(0:08 00/05/19)


エトランジェ効果(c)。異国の文物を見聞したり、それほど詳しくない外国語の歌を聴いたりときに脳内麻薬が放出されて生じる快感をこう呼びたい。それは議論をしていて新しい発想が生まれる快感と似ている。脳みそのシナプスが繋ぎ変えられていく快感だ。幾億の脳細胞が刺激を全力で理解しようとぷちぷち音を立てて動作する快感だ。(22:39 00/03/26)


日本人の学問、文学、映画での片思い。なぜ日本人は欧米に片思いするのだろうか。(もともと片思い的状況が好き、ということもあるだろうが。)文学や映画では日本好きの欧米人も確かにいる。だがその数は欧米好きの日本人より圧倒的に少ない。日本の文化は世界にとっては謎に包まれたままだ。日本は経済的のみならず文化的にも大口消費者であるが、消費に見合うほどの文化生産を行っているだろうか。日本の文化で海外の一般市場に広く浸透しているのはやはり良くも悪くもアニメやゲームである。そしてそのアニメやゲームは皮肉にも「金髪趣味」をはじめどっぷり「欧米好き」が反映されている。またポケモンの登場人物をすべて知っているアメリカ人の7歳の子供が日本についての「より基本的な知識」をどれだけ知っているだろうか。たとえば日本人はご飯をよく食べる、春になれば花見にいく、ときどき寺や神社に行くがクリスマスも祝う、など。架空のキャラクターはよく知られていても、日本人の実態や価値観はまったく知られていないのである。ポケモンやその他のアニメが日本以外の国で暴力的などと異端視されているのは、「生きた人間」の交流に基づく理解がないからではないか。この点でUWCのような国際理解教育に大きな意義がある。(13:00 00/03/23)


輪廻について。多磨霊園を自転車で走って考えた。仏教では輪廻の輪から抜け出るのが目的だったはずだが、最近では「絶対生まれ変わりたくない」と思う人のほうが少ないような気がする。(少なくとも生まれ変わることを信じている人の間では。)流行歌でも「生まれ変わって」という句は相変わらず人気がある。もともと現世を苦と捉える仏教は「苦しみから逃れるため早く死にたい」と一部で考える人もいたようではある。(死んでも生まれ変わってしまっては無意味なので輪廻から抜けたい、ということになるのだろう)さらに一部の新宗教では曲解が極限まで進んでしまったようである。だが少なからぬ人が仏教を奉じる日本が世界の最長寿国というのは興味深い。少なくとも世の中が生まれ変わるに価するほどましになった、ということか。大変結構な話だ。(17:00 00/03/20)


両国の江戸東京博物館へ行く。風が強いが天気が良いので出かけたのだ。いくつかの展示物に見所シールを貼ってそれでおしまい、というのは頂けない。もっと面白いテーマをひねり出して企画展をして欲しいものだ。女性案内員の数がものすごく多い。(それになぜか若い女性しかいない)確かに広い美術館ではあるけれど。これだけ人件費を出して都の財政が赤字にならないほうが不思議だ。インタラクティブ度が足りない。パソコンをもっと活用すればいいのに。外国の訪問者が多いのに英語の説明が少ない。はっきり言って全体的に物足りない。(館内にIMAXがあったりするアメリカの博物館と比べる方が間違っているのか?)でも展示の半分を見る時間がなかったのでまた行ってみようと思う。(0:05 00/03/18)

 


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