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芸術・美学 ] 翻訳 ] 文学 ] 音楽 ] 映画 ] 過去 ] 文化 ]


『きけ わだつみのこえ』

『新版 きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』をまた読む。「学生」といっても20歳前半から30歳前半くらいである。彼らの一部の哲学的思索が、軍隊に入った後の、自分の現状を正当化し、自分を納得させる方向に作用していることを感じる。戦争を理想化、肯定、賛美するような考えでも、上官命令への絶対服従の軍隊に入った後で、それが持続するだろうか。一歩間違えば戦意高揚にも使われかねないのだが、都合のよい読み方というものはどのような本でも可能なものだ。

この中の上村氏の日記には、幹部候補生の口頭試問で「エンジョイする」と言って敵性国語と指摘された、というくだりがある(たしかこの表現はかなり古いと聞いた覚えがある)。60年後の現在にも驚くほど近い言語感覚を感じる。逆に言えば、60年後の現在でも、日本人の思想はたいして変わっていない、ということに思い至る。

この当時の知識人の間での、戦争に対する抵抗、抑止力が未発達だった、ということが恐ろしい。戦没学生は結局は「軍隊に入った人間」である。抵抗とはいっても、応召や士官候補生に対する忌避という消極的な段階でしかない。

だが、それよりもさらに恐ろしいのは、その抑止力が現在の日本でも未発達のままであるということだ。それは日本人の思想基盤が所詮は借り物でしかない、ということと無関係ではあるまい。

みな「戦争はいや」なのだ。だが、「自分だけは生き残りたい」という考えだけでは結局は戦争が起きる。相手も同じことを考えているからだ。(19:00 05/02/14)

やはり、この本を戦争賛美、戦争の正当化に使う人がいるらしい。軍部の批判などしてみせながら、結局行き着くところは同じなのだ。この本から学べることは、「なぜ愚行と認識しつつ、それでも戦わなくてはならない状況になったか」について考えることだろう。(19:32 05/03/01)


ルーウェリン反応(Llewelyn reaction)

機械翻訳、手書き文字認識、OCR、音声認識、スペルチェック、文法チェック、IMEの誤変換など、コンピュータの認識処理、特に自然言語の認識の失敗に対する、人間側の、感情的な拒否反応心理。文法や語彙への逸脱に対する過剰な反応。人間同士でも誤訳に対して過剰な反応を示す場合があるが、コンピュータが相手だと「単に処理に失敗した」と感じるに止まらず、コンピュータに対する強い不信感となる。翻訳者や教師など自分の職業(言語能力)に自信がある場合は、特に強い。自尊心、人間の尊厳、職業上の誇りなど複数の要因が考えられる。たとえば、翻訳者は翻訳ソフトの誤りに対して、過剰に反応する場合がある。

ルーウェリン反応により、自然言語認識処理を含む高度なIT化の推進・普及が妨げられる。実際には簡単な修正で役立つ処理であっても、冷静な分析をせずに感情的に拒否してしまうからである。アプリケーションやユーザーインターフェイス開発者にとっては、自然言語認識の成功率を高めることによりそもそも失敗をゼロに近づける必要がある一方、このような心理の存在にも留意すべきである(アプリケーションの講習の講師にも当てはまる)。

ルーウェリン反応は、慣れにより、作業に支障とならなくなる。

なおルーウェリンとは、無実の忠犬ゲレルトを殺したという伝承がある、ウェールズの王のことである(参考・吉賀氏のページ)。

(4:41 04/02/01)


政治献金は非民主的である

私は日本が民主国家であると思ったことは一度もない。保守政権が60年に渡って事実上の独裁を行っている国家のどこが民主的であろうか。政権交代を経験しない(過去に起きたものは短すぎて政権交代とは言い難い)日本の民主主義はなんちゃって民主主義でしかない。

政治献金もまたこの非民主性のあらわれである。政治献金とは「非合法化されてない賄賂」とどう違うのか、教えていただきたい。政治の基本は個人であり、そこに企業が関わるのは言語同断である。もともとゆがんだ政治をさらにゆがめることになる。

報道によれば、日本の主要企業100社中、政治献金をしないとしているのは2割だそうである。これは少なすぎる。政治献金は一律禁止としなければ、個人に基づく民主主義は実現することはない。自民党以外への献金もするからよいといった問題ではない。政治献金を継続する以上、日本に民主主義を標榜する資格は一切ない。政治献金を止めるか、民主主義の看板をおろすかどちらかにしていただきたいものだ。

企業は自らの意志決定により独自の社会貢献を行えばよい。政党そのものにだらだら金を出す点が問題なのである。

この「非民主性」は日本文化の一面と不可分である。民主主義を唱えたければ、日本人のあり方そのものを問いなおす必要がある。(01:40 03/08/30)


住基ネットは安全ではない

IT翻訳者のはしくれとして言っておく。住基ネットは安全ではない。各地方自治体でのIT技能の浸透度、ウイルス騒ぎでの対応の遅さと稚拙さから考え、現状では問題がありすぎる。使用しているパソコンにウイルスが入ること自体が問題であることを関係者ははたして理解しているのだろうか。ネットワークとパソコンに対する知識は十分だろうか。「実際に問題が発生する前に駆除したから安全」だとでも思っているのか。人為ミスによるトラブルもありうるが、悪意のある攻撃に耐えられない。それも個人ならともかく、組織的なテロが行われたらどうだろうか。セキュリティとはハードやソフトのことだけではない。ユーザーが一定の訓練を受けていなければ無意味である。申し訳ないが、私は各自治体の担当者が全員合格だとは信じられない。

この穴だらけのシステムに疑問を呈する自治体があまりにも少ないという点で、すでに各自治体にセキュリティ意識のセの字もないことは明白である。問題が発生したら国が全部責任を取ってくれるということか?

このまま放置すると、少なくとも今から半年以内に、かなり大規模の問題が発生すると予想される。(16:19 03/08/23)


ヨーロッパ取材旅行より帰国しました。通常通りご連絡いただけます(03/8/10)。


首都機能移転は必要か

今すぐにではないにせよ、最終的には日本のためにも、東京自体のためにも必要である。これが私のかねてからの持論である。

日本全体の活性化には、日本人の東京信仰、東京依存、「東京教」ともいうべき一種の宗教、迷信を一度粉々にする必要がある。東京の後光が目を眩ませているだけである。東京=日本だと勘違いしている東京人は少なくない。東京の人口は日本全体のわずか一割でしかないことを思い出してみるがよい。

一度住めば、これだけ人口が過密した異常が「普通」だと思いこまされてしまう。そこにある余裕は、あくまで表面的で浅薄な見せかけでしかない。緑地や公園を申し訳程度に設けてみても、確固とした思想と熟成した方向性のある都市計画に基づくものではない。「あくせく」しているのは覆い隠そうとしても隠しきれるものではない。

江戸は、荻生徂徠『政談』に「諸国の掃き溜め」と言われてきた。幸田成友「江戸の町人の人口」(中央公論社刊「幸田成友著作集第2巻」)によれば、他所出身者は3割にも上ったそうである。そして明治以降、東京はその傾向にさらに拍車をかけた。今の東京は、本質的に「都会人の振りをした田舎者」「都会人になりたい田舎者」の街である。これは懐の広さというものとはまた違うようである。

田舎という語を蔑む必要があるだろうか。田舎人の自覚を捨てた上で、都会に入れば、田舎は蔑みの語となる。田舎人であるにもかかわらず都会人に「なりたがる」のは、日本人の、欧米文化への憧憬とコンプレックスの構造と相似形である。その誇りを捨てた田舎人の姿は、まさしく「田舎っぺ」である。私がこの茨城由来の言葉を使うのは、「都会に憧れるからこそ田舎っぺなのだ」ということに気づかない(本来恥じる必要のないはずの)田舎人の卑屈な姿をあらわす語として好適だからである。茨城に5年住んで、そのことはよく分かった。田舎人が田舎人としての自覚を取り戻さないかぎり、田舎人からなる東京の薄っぺらさ、野暮ったさ、ニセモノ臭さもまた直りようがない。

工事につきものと言わざるを得ない汚職を排除できる見通しができれば、日本の精神基盤にガツンとショックを与えることで、新しい文化が生まれる最高の刺激になるだろう。首都である気負いを捨てることで、東京に新鮮でありまがらも、より成熟した文化、いやむしろ「成熟できる文化」が生まれる余地が生じる。成果があれば、決して金の無駄遣いではない。今のままの東京に満足するな、安住するな。さらなる刺激を求めよう。
(04:24 03/05/18)


戦争が嫌いという気持ちは分かる。

でも戦争が嫌いなら、なぜ何もしないんだ?

戦争に加担している人びとに票を入れるんだ?

なぜ選挙に行かないんだ?

自分が将来戦争に行かされることになっても、それでは文句は言えまい。自分でそう選んだのだから。

戦争がいやなら選挙で適切な人物を選ぶべきだ。もっとも都知事選などでは適切な人物がそもそも候補にいないのが困ったところだが。

その一方で「戦争は仕方がない」という意見は無責任に聞こえる。「アメリカが戦争するのは仕方がないけど自分は関わりたくない」という本音は少なくないのだろう。反戦を批判する人は自分自身は戦争に行きたくないと思っているのではないか。反戦批判の人で「自分は喜んで戦争に行く。上官の命令には何でも従う。死ねと言われれば死ぬ」という人はあまりみかけない。誰か代わりの人、アメリカがやってくれるならそれでいいと思っているのではないか。だがそんなことを言っていては日本は将来きっと見殺しにされるだろう。

今回の戦争を日本は傍観した。その無関心さは戦争への参加不参加自体よりもっとまずいことに思える。金を出すだけでは、日本が本当に困ったときの友だちになってくれる国はいない。

日本が再び軍国化しそうになった場合に、今の日本人はそれを止めることができるだろうか。それともただ傍観するのだろうか。(18:10 03/04/18)


突然ですがNiftyに移転しました。このままずっとNiftyにいるかは未定ですがたぶんこのままでしょう。http://cosmoshouse.com/ をこの で登録してもらえると、今後どこに移転してもたどり着けます。新しい掲示板のアドレスは http://cosmoshouse.com/bbs/ です。

現在『パソコンで超速仕事術(仮題)』を執筆中。(2:21 03/02/26)


孤独なときにしかやり遂げられない仕事がある。

孤独でないときにしかやり遂げられない仕事がある。

(4:51 02/12/02)


誠実であることは、「嘘は言っていない」ということと同義ではない。

(21:34 02/12/01)


某社のブロードバンド向けサービスのモニタに当選して、パソコン用のカメラをもらった(ほんとはまだ借りてるだけだけど)。デジカメではなくして主に動画を扱うヤツである。これがけっこう面白い。これを使って、自分で撮った映像を編集してみた。無料のソフトでは大したことはできないが、映画作製のまねごとができる。もっととりがいのある被写体があればいいのだが。

ビデオチャットもしてみた。思ったより使い物になる。自分の部屋からビデオチャットをするときは、部屋の見える範囲を片付けなければならない。

このカメラは鏡代わりにもなる。みなさんは、毎日鏡で自分の顔を見ていると思われるかもしれないが、正確には左右が反転した「鏡像」を見ているわけだ。ところが、カメラでは「実際に他人に見えている自分の顔」が見える。まあ大した違いがあるわけじゃないが。

(23:00 01/12/15)


クリックのしすぎで右手の指が痛い。音声入力を使うことにした。馴れが必要だが、使い心地はそう悪くない。(この文章も音声入力を使用して入力した。)意識してはっきりした発音するというのは、普段の経験ではなかなかない。ちょっとアナウンサーにでもなった気分だ。

左手でのマウス操作の練習もする。実際には左手で動かしているのにもかかわらず、右手に力が入ってしまう。(0:26 01/06/02初稿)

左手でのマウス操作はかなりうまくなった。音声入力にもかなり慣れてきた。(2:55 01/06/05追加)


コンビニに置いてある×ン××という雑誌のコピーを見て吹き出した。

「『運命の恋人』に巡り会う秘訣」

とある。どこが可笑しいかって?
この世に運命というものがあるとしよう。運命とはその定義上、避けがたいものである。すると「運命の恋人」とはどうあがいても巡り会ってしまう人のことではないか? ならば「秘訣」は不要だろう。ほっといても巡り会うのだから。秘訣がなければ巡り会えないなら、その人は運命の人ではあるまい。もし私の解釈に難点があるなら秋桜舎ブログまで書き込んで欲しい。(ああ、こんなことを書いているから私には巡り合いがないのかもね。)
この矛盾を感じさせずに雑誌に目を引かせるライターの手腕には喝采を送りたい。

もっとも、運命とはある程度の拘束力はあるものの、変えられないものではない、という見方もある。運命の女神、というものがある。ギリシア神話におけるモイライ(単数モイラ)の三女神クロト、ラキシス、アトロポスや、北欧神話のノルン三女神、ローマ神話のフォルトゥーナなどである。多神教の神々は決定論ではない。運命が完全に抽象化されてしまわず神の手に委ねられ、あるいは神格としてみなされるところに運命の不確定性がある。(もっともモイライの司るのは「人の運命」らしいが。)モイライは糸、すなわち人の命をつむぎ、測り、切る。またフォルトゥーナは舵を持つが、糸がどうなるか、舵を持つ手がどう動くかは決められているわけではなかろう。実際、モイライの糸に干渉をする神話もあるようだ。運命を司るメタ運命があるのかもしれない。運命を司るのはどれも女神である、という点も面白い。女性=気まぐれという偏見(あるいは真実?)だろうか。運命が気まぐれであるとすれば運命の存在意義自体がなくなるようでもあるが……。

私は運命という言葉の響きは決して嫌いではない。

外洋クルーザーに「ディスティニー」という名前の船がある。

悪くない名前だ。

(16:27 01/04/15)


私がここ数年で学んだことのうちもっとも重要なもののひとつは
「当たり前と思えることをあえて言おう」
ということである。
当たり前と思えることほど、理解されておらず、あるいは誤解されているものだ。
そして本当に重要な事は、おそらく何度繰り返しても足りぬものなのだ。(0:49 01/04/14)


哲学的思考を行う人間が最も陥りやすい罠のひとつは、ひとつの思考様式から抜け出せなくなることである。多元的な見方が可能な場合に、ひとつの論理的筋道しか見えなくなる。論理とは局所的に整合性があり無矛盾であるようでも、大局的に通用するとは限らない。むしろ論理的に連続しているからこそ、他の可能性を排除してしまい、危険なのである。常識とは常に限定された時空間のみでしか有効でないと考えるべきだろう。常識を形作る「物の見方」は文化に左右され、その文化は局所的な特性に依存する。ニュートン力学が好例といえる。科学はしょせんひとつの「物の見方」、文化でしかない。局所論理で大局を論じようとするのは無理がある。論理の限界を忘れると、大きな誤りを犯していたとしても自分で気がつくことはできない。

とくに「哲学」、philosophos、「知を愛する」営みでは、局所的な論理から抜け出すすべは方法論的に内包されていない。哲学におけるひとつの思考の流れは、非常ドアがないビルを建築していくようなものである。火事になっても逃げだす場所がないのである。(4:42 2001/04/07)


中央線の列車の中でおじさんに声をかけられた。
「それ、なんだい」
僕はWorkPadでNew York Timesを読んでいたのだ。
「字が小さいねえ。俺は字が小さいのは嫌いなんだよ」
こざっぱりした服装だが、何かの宴会の帰りであろう、だいぶ酔っておられるようである。字が小さいものを読む人間も嫌いなのだ、ということが言いたいのかと思った。文字を大きく表示することもできるのだが、別に言い訳はしなかった。
「それ、あいもーどってヤツかい」
違う、と答えるが、あえて説明はしなかった。
「それ、英語だろう」
「俺は年の割には気さくだろう」
車内は静まり返っている中でおじさんが僕に話し掛ける声だけが響く。
「それ、いったい何が書いてあるんだい」
おじさんの質問はなかなか終わらない。
ニュースの続きを読もうとするが、どうも解放してもらえないようなので、WorkPadから目を離し、相槌をうってあげることにする。

およそ東京は、あなたが何かの店員や係でなければ、道を尋ねるのでもないかぎり、見知らぬ人は決して話し掛けてこない土地である。

このおじさんは、どうにも手のつけられない酔っ払いというわけではない。どちらかというと、かなり丁寧な酔っ払いである。いきなり怒鳴りつけるわけでも因縁をつけるわけでもない。ただ唐突にいろいろなことを聞いてくるだけである。道を譲っても「いかにも当然」といった顔で通り過ぎる人が少なくないことを考えれば、僕の存在を認めてくれているだけ、よほど丁寧かもしれない。

モリソーリが世界の笑いものである、という説を聞かされる。いまさらおじさんに指摘されるまでもないことではある。かの総理については僕とて言いたいことは山ほどあるが、相手が何分酔っておられるので、まともに聞いてはもらえまい。

しばらくして、どうやらおじさんが降りる駅に来たようだ。
「俺、敏感なんだよね」
おじさんは袋から花粉防止用なのであろう、巨大な水中眼鏡を取り出して装着し、さらに口にマスクをかけた。
「ま、そのうち、いっしょにいろいろやりましょう」とおじさん。
いったい何をやるのかはよく分からない。
おじさんは、列車を降りた。

1000万人以上の人間がひしめくこの「掃き溜め」(というのは伝統的表現であるが)で、このおじさんと出会うことはもう二度とないことであろう。(2:20 2001/02/25)


隣の部屋のステレオの音がうるさい。壁を通すと音楽としては聞こえず、絶え間ない低音が延々と聞こえてくる。(もっとも壁がなかったとしても、はたしてあれが音楽なのかは自信がないが。)天気の良い昼間というのに部屋にこもるとは不健康な奴である。人のことは言えないかもしれないが、同じこもるにしても、こっちは仕事だ。

久しぶりに耳栓をして仕事をする。驚くほど集中できる。そこで、ふと思った。耳栓をして買い物にゆけば、店内に流れる音楽に惑わされることなく、衝動買いをすることもなくなるのではないだろうか。某店や某店、某店でも店内に流れる音楽は宣伝の域を越えて洗脳のために使われている。宣伝文句を延々と繰り返す。音楽さえ我慢すれば安いのだが。店内に流れる音楽は冷静な思考をかき乱し、買うのを踏みとどまろうとする理性を打ち壊す。Smash into smithereensである。他にも安い店があることや、安い品があるかもしれないことを忘れてしまう。

よし。今度は耳栓をして買い物に行こう。(14:36 01/02/15)


初雪である。

昨夜からちりちりと降る音が絶え間なかった。

カフェ・オ・レの「レ」を買いに外に出る。

空は昏く地面は白い。

残照が消えきっていない空に円い月がかかり、早々と太陽の代わりに下界を照らしている。

エアメールのための切手を買い、自転車の籠の隅に残った雪で湿す。残念ながら恋文ではなかった。

雪の日は、自転車置き場の足跡と轍で、どの自転車の持ち主が出て行ったかすぐに分かる。足跡。轍。これも人間が確かに存在した証しだ。このアパートの住人とはほとんど顔を合わせることはない。置いてある自転車よりは足跡の方がまだいくらかは人間らしい。

部屋に戻る。電子レンジで湯を沸かす。インスタントのエスプレッソを定量の二倍弱ほど、330mlの二重ステンレスのマグに入れる。マグにはコーヒーと茶渋が焦げついたようにこびりついている。ダイエットシュガーを小匙に軽く一杯入れる。湯を七分目まで注ぐ。「レ」をマグのふちぎりぎりまで注ぐ。

カフェ・オ・レのできあがり。ドリップの繊細な芳香などない、手っ取り早いカフェイン補給剤である。

後は残りの仕事を一気に片付けるだけだ。(21:23 01/01/09)


子どものころの記憶が、何かのきっかけで突如甦るということがある。長い間意識の外にあって、思い出されることがなかった事だ。その想起自体があまりにも鮮烈な印象を持つため、思い出したこと自体を覚えていることさえある。

実家に溜まった私物を整理していたとき、古い答案用紙を見つけた。その裏にびっしり書き込まれた123456789101234……という数字の羅列を見てその執拗さに慄然とした。そして、それが「何であったか」ということを思い出したとき、改めてぞっとしたのである。

小学校低学年のころだったと思う。テストが少々早く終わった私は先生にどうしたらいいか訊いた。確か「寝ていなさい」か「答案用紙の裏に数字を1から10まで書いていなさい」という返事だったのだと思う。「0から9」ではないのである。0や桁の観念を算数で扱う前のことだと思う。少なくとも、教師に対しほとんど何の疑念も抱かずに素直に従っていた頃である。私は机に伏せ、自分の腕を枕に寝ていたこともあった。起きると、息で机は十センチほど丸く結露しており、腕の跡が顔についていた。そして何年も使われ続け、汗の染み込んだ木の学習机のにおい。寝ろと言われれば寝れたのだから素直なものだ。またあるときは、教師の言うまま1から10まで延々と書きつづけていたこともあったのだ。これはおそらくその教師の発明ではなく、マニュアル本などに書かれているのだろう。今考えると、ずいぶん時間を無駄に使ったものだ。この作業の単調さ。写経ならば複写という行為であっても、意味を見出すことができるだろう。だが1から10まで書くのに大人はどのような意味を見出せるのか。大人にとってはこの作業はほとんど刑罰である。子どもであればこそ、飽きずに(そして教師を疑わずに)書いていたのだろう。

何度書いても字は少しもうまくならなかった。もしかすると集中力がついたのかもしれない。いや、関係ないだろう。

今、この瞬間も日本のどこかの小学生が1, 2, 3……とひたすら数を書きつづけているのだろうか。(21:53 00/11/10)


大学の入試について。大学のすべての入試は論述問題を基本とすべきである。知識は論述の中に反映し得る。穴埋め問題でその人間の能力がどれだけ測れるだろうか? 知識・情報を調べ見つけ出す能力、見つけた知識・情報を理解する能力、理解した知識を現実の状況に則して適用する能力は穴埋めでは決して分からない。穴埋め問題のために学ぶ機械的に暗記された知識は受動的過ぎ、実際には役に立つことは少ない。知識は文章としての一定の文脈の中に活かしてこそ意味がある。また機械的に暗記された知識は忘却されやすい弱点も持つ。意味上のつながりを無視しているからである。小手先の暗記ではない、自分の身につけた知識でなければ論述はできまい。

論述問題では客観的な評価ができないとする意見もある。しかし多くの場合は書く側が客観的な書き方を知らず、読む側が客観的な読み方を知らぬだけである。今の日本の学校では客観的な読み書きを教えているところは極めて少なかろう。
分かりやすく、論理的で、説得力を持った文章を簡潔に書くことは、すべての学問の根本ではないだろうか。咄。(17:15 00/08/27)


ダイエット・コークで本当にダイエットできるだろうか。できるかもしれない。炭酸でけっこう満腹感はある。しかも低カロリーではなくノン・カロリーである。私の近所では、人工甘味料を使った清涼飲料の2リットル・ボトルはダイエット・コーク以外には売っていない。日本では喫茶でも砂糖の代わりに人工甘味料がおいてあるとは限らない。シカゴなどではコーヒーが飲める場所には砂糖、赤い袋のサッカリン、青い袋のアスパルテームがおいてあった。そのかわり日本のガムのキシリトールの普及率は極めて高い。不思議だ。

ペプシとコカ・コーラを飲んで区別できる人がいるのだろうか。これも長年の疑問だ。(21:52 00/08/26)


本屋で参考書などの棚を見ると、高校生向けの「現代文読解」がたくさんある。「それ」が指す内容は何か、などという類いのものだ。だが難しい文章を読み解くのはともかく、なぜ分かりやすく書く訓練が学校でされないのか。(答え:入試に出ないからである。高校生は入試に出ないことは勉強しない。)およそ小論文では見栄えのよい書き方くらいしか教えないのである。分かりやすい文章は、時としてくどいと思われることもある。そして、格好をつけるため生徒はよく分かりもしない言葉を(定義もせずに)使用する。これはもちろん読む側に大いに問題がある。お互い分かった振りをして書き、読む。やれやれ。分かりやすく説明できない事柄は、理解していないのと同じことである。咄。(1:26 00/05/25)


非言語的なイメージについての二、三の予備的考察。

仮定1:非言語的イメージは存在する。

予想1:非言語的イメージの存在を言語を手段として否定することはできない。

予想2:言語や記号が意識を構成するのではなく、言語や記号は非言語的イメージの表出でしかない。

予想3:言語や記号は固体的なメタファーにより自己限定されている。

予想4:非言語的イメージを感知し、その重要性を理解することは一部の人間にとって極めて困難である。

(以下の文脈中で特に断りがなければ「イメージ」は非言語的イメージを指す。)

予想1の補足:神の存在を科学的に否定しようとする行為が空しいが如く、言語は非言語的イメージそのものを感知する方法として不適切、不十分だからである。

予想2の補足:非言語的イメージは言語を介して理解されうるが、言語は仲介者でしかなく意識の本体ではない。

予想3の補足:「固体的なメタファー」とは「論理」である。

予想4の補足:イメージの感知がある文化的集合で積極的に行われない、あるいはイメージの役割が過小評価されるのは文化的な要因が最大であろう。医学的、遺伝的な要因も考えられるがこの方面での追求は当面行わない。(12:35 00/05/15)


迷子する。意図的に迷子になる。わざとよく知らない小道に入り込み、自分の位置感覚をふと失うのは、時として幼児退行にも似た快感ともなる。あるいはそれは腕時計をはずした解放感にも似ている。時の刻みから解放されるように、空間からも解放されることだ。その頼りない不安感がスリルとなる。バリ島に住む人は、聳えるアグン山を頼りにして自分の方向感覚を確認しているという。方向感覚が分からなくなると精神的に不安定になることもあるそうだ。(0:47 00/05/02)


突然、思い立って聖蹟桜ヶ丘まで行く気になる。まだ行ったことはない。なんか気になる名前だ。午後、下河原緑道を自転車で南下する。気持ちがいい。道端に奇妙な白い建物が立っている。そこを少し行くと、多摩川だ。川沿いの土手を走るとジョギングの集団とすれ違う。関戸橋を渡る。橋の真ん中で立ち止まる。川の向こうには京王線の鉄橋が見え、列車がときおり通り過ぎる。日はもう沈みかけている。水面の照り返しが赤く染まっている。駅へ行く。品揃えがいいデパートで「水切り」を買う。水切りとは遠心力で洗った野菜の水を切る、ただそれだけの道具である。買ってしまってからそのあまりに単純な事実に胸を打たれる。後悔の念が一瞬よぎったが、気を取り直す。手回しのコーヒーミルがずらりと並んでいる。こういうものを、いつか誰かにプレゼントされてみたい。家に帰ってサラダをつくる。と言っても野菜を洗ってちぎるだけだ。四本あるドレッシングのどれにしようか。レタスを出そうとすると、冷蔵庫の中で凍っていた。入れる場所をもっと考えねば。(0:52 00/04/29)


私の知る人で「自分は利己的な人間だ」と自称する人がいる。謙遜ならいい。その意味では私もまた利己的だ。だが自分の行為を正当化するためにそう言いたくはない。遺伝子が利己的だから自分も利己的なのだ、と理由付ける人がいるとしよう。リチャード・ドーキンスの言う「利己的な遺伝子」というのは、煽情的な言い回しにしかすぎず、どれほど好意的に解釈しても誤解を招く表現でしかない。遺伝子は人間と同様の意思を持っているわけではなく、強いて言えば一定の傾向を持つであろうという程度のものでしかない。従って遺伝子が利己的であることが証明されたとしても人間が利己的である、もしくはあるべきだという理屈は通用しない。そもそもどのような遺伝子でも多様性を否定し一種類だけで存在することは不可能である。ある遺伝子に95%類似した遺伝子は、元の遺伝子にとってどれだけ「自己」なのか?99%ならどうか?自己というものは常に他の存在を前提としているものである以上、純粋に利己的であることは不可能である。科学者と自称する人の「個体が生きるのは自らのためか、集団のためか」という問いは人間に関して発せられた場合、レベルの混同をしているに過ぎない。(18:13 00/04/10)


フロイトは過小評価されるか過大評価されるかのどちらかである、という印象がある。やたら持ち上げて教祖化し、フロイトの言うことは何でも正しいという立場もあれば、明らかにその著書をいくつかかじっただけで無意味と決め付けている立場がある。(学問や日常生活に影響を及ぼしている影響は無視できるものではない。)正当な評価というものはそもそもないのかもしれないが、それにしてもその立場の両極端さには驚かされる。フロイトの男性中心主義と同質のものはしっかり日本の社会に息づいている。男性中心主義者がフロイトを批判する様は滑稽としかいいようがない。(20:06 00/04/09)


府中市桜祭りを見物に行く。エイサーのような太鼓が聞こえると思ったらやはりエイサーをステージでしていた。エイサーの活力は、二十五歳までという年齢制限にあるのかもしれない。カチャーシーになると予想はついていたが観衆の反応は鈍かった。沖縄では全員とはいわなくても観衆の少なくとも3分の1くらいは踊っていたようだが。私自身は逃げた。次のステージは中年女性が踊るどこぞの地方の伝統舞踊だったが観衆は激減していた。エイサーは稀な例外だが、日本の伝統芸能はぷっつり断絶している。自業自得という語が連想される。若い世代を弾きつける魅力を伝えようとしない。発展性がない。世代間の断絶である。欧米のステージではジャズでもロックでも日本ほど明確な断絶は見られない。子供も老人も同じ感覚で楽しめるのは、彼ら自身が育てつづてきた文化だからである。駅前で短い手足を振り回しどこかズレた、踊りのような痙攣的動きをする日本の若者は滑稽だ。自分たちではカッコイイと思っているのだろう。しょせんはテレビの猿真似である。私はひたすら違和感を感じる。この猿真似がいつか本物になる日はくるのだろうか。(15:29 00/04/01)


昼前に起きて、自転車でコンビニに行って弁当を買い、近所の最近見つけた公園で食べる。辛夷の花が咲いている。食後は自転車でしばらく近所を散歩する。ふと見ると、立ち並ぶ住宅の間に、ほぼ正方形の小さな空き地が暖かい陽射しに照らされてぽっかりあった。丈の低い白と紫の小さな花が入り混じっていちめんに咲き乱れている。(17:17 00/03/31)


連絡をくれるはずの人からメールがこないわけが判明した。なぜこんなかんたんなことに今まで気がつかなかったのだろう。電気やぎさんがとちゅうでメールをもしゃもしゃ食べてしまうのだった。

ひとまず大仕事を終えたのでほっとしています。(17:47 00/03/15) 


会うはずの人に会えず、連絡がくるはずの人からこない。諸行無常、是生滅法。(11:29 00/03/14)


知ったかぶりもいいじゃないか、と思う。知ったかぶりを最初から否定してしまうと文章は書けない。どんな研究者も最初のうちはみな知ったぶりだ。(生まれた時からシェークスピアの全作品名を言える人がいるだろうか?)ただ最後まで知ったかぶりだけだと空しい。見てもない映画について書いたり、聞いたことのない音楽について書いたり、読んだことのない本について書いたりすればやがてぼろがでて恥をかくだけだ。研究者のすることは最初の「知ったかぶり」を身のある知識にするととではないだろうか。知ったかぶりでも自分の意見をどんどん出し、他の意見を取り入れて肉をつけていけば十分に通用する知識になると思う。だから最初は知ったかぶりでいい。最初だけは。  (13:21 00/03/10)


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