翻訳の話題

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「昨日のひとこと」から文芸翻訳と翻訳一般に関する話題を抜粋しました。翻訳を学び続ける者としての率直な疑問や意見です。ご感想は秋桜舎ブログメールでどうぞ! 

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ルーウェリン反応とチューリング・テスト

チューリング・テスト(Turing test)とは人工知能を評価するための実際的というよりは思考実験的なテストである。現代風に再定義すると、画面上の文字によるコミュニケーションで、人工知能であることに試験者が気づかなければ合格ということになるだろう。だが、その考え方には現在では異論も多い。さてチューリング・テストをルーウェリン反応の面から定義すると、「試験者にルーウェリン反応が見られなければ合格」と考えることができる。だが、ここで問題なのはもはや「そのシステムは人工知能として完成しているか」「知能を持っているか」「『理解』をしているか」という抽象的な点ではなく、「自然言語処理がビジネスの自動化に貢献するか」という実際的な点である。

具体的な例で見方を少々変えれば、翻訳ソフトの翻訳が実用になるかという点もその一例である。そしてそれが失敗した場合は「なぜ翻訳ソフトの訳だと分かったのか」という点もまた、前向きに検討する意義がある。

(19:09 04/02/15)


翻訳における「反復」について(改訂)。

§

言語を問わず、文章の中ではある要素が繰り返されることがある。この繰り返しは、「過剰な反復(excessive repetition)」、「有意の反復(significant repetition)」、「中立的な反復(neutral repetition)」の三種類がある。そして日本語と英語では、この反復の基準が異なっている(もちろん同一言語の中でも、契約書など文書の種類によってこの基準は異なる)。

「過剰な反復」は削除する必要がある反復のことである。これに対し「有意の反復」は、その繰り返されている要素が削除されると、文や文章の意味が変化してしまうような反復である。また「有意の反復」でも「過剰な反復」でもない、「中立的な反復」という状態がある。

「過剰な反復」を含む文は、「意味的な飽和状態」にあるともいえる。「過剰な反復」は削除されても本来の文の意味を変化させることがなく、むしろ「積極的に削除すべき反復」を指す。文章の意図は達成されているにもかかわらず、余分な要素があり、なおかつその要素が文の「滑らかさ」を阻害している反復である。削除しても文があいまいにならず、読者が「うるさい、くどいと感じる繰り返し」である。

「有意の反復」とは、「繰り返すことに意味がある反復」である。その反復が原文の構造を引き継いだものであれ、訳出後に発生した反復であれ、その文あるいは文章の中で反復されることに正当な理由があるものを指す。「有意の反復」を削除すると、文があいまいになったり、本来の意図を損ねたりする場合がある。たとえば、話者を明確にするためには、名詞や代名詞を繰り返し使用せざるをえない場合がある。また厳密さを要求される契約書や論文、条約などではあいまいさを排除するためにあえて反復をおこなう。また執筆者の意図を強調するために反復することもある。当然このような反復は、削除してはならない。

「中立的な反復」とは、繰り返しても繰り返さなくても、文の意味に影響しない要素を指す。該当する部分が必要不可欠な要素ではないとしても、文章の「滑らかさ」にはプラスの影響もマイナスの影響もない。従って削除してもよいし、しなくてもよい。だが本当にどちらでもよい場合は、実際上は限定される。たいていは、その要素を残すか残さないかの判断を迫られるはずである。

翻訳での「過剰な反復」は、原文の構造をそのまま反映した場合と、日本語に訳して調整した後で結果的に反復するようになった場合とがある。前者の場合は訳す過程で、原語における反復が訳文言語では過剰であることが見過ごされた場合に発生する。後者は、各所の語句を推敲するときに、ある語句を言い換えたために別の箇所に干渉して、結果的に「過剰」になったケースである。どちらの場合でも、意味的な過不足がなく、なおかつ文章の滑らかさや全体のバランスからみて「過剰な反復」と判断されたときは、その語句を削除する必要がある。

欧米諸語では、書き言葉においても話し言葉においても、品詞が省略できるケースは比較的少ない。欧米諸語では代名詞が広く使用できるため、意味的に同じ言葉を繰り返しても問題はない。逆に言えば、代名詞を使用して指示内容を明確にすることが言語の性格上、必須ということになる。なお英語には性の区別はないが、ラテン系、ゲルマン系の言語では性数の区別が行われるため、ある程度指示内容の混同を防ぐことができる。

これに対し日本語では、文法的に代名詞が必須とされる場合は比較的少ない。ある一連の文章の中で、文脈上、指示内容が自明である場合は、代名詞を使用せずに表記上は「省略」してしまう方が一般的である。実際には、指示内容が代名詞ですら限定されないために、指示内容の本質に全く言及することなく会話が行われている。これは、言語の性質の一部であるため、お互い日本語で会話している場合では、それほど重要な問題にはならないが、翻訳をする場合には大きな問題になってくる。

これはつまり、英語では「有意の反復」であっても日本語では「過剰な反復」になる場合や、その逆の場合である。どこまでが有意でどこまでが過剰かという判断基準は、言語によって異なるため、英日訳の場合は、語の対応関係だけではなく、訳した文章の日本語を「日本語の文脈」として見直す必要がある。

日本語では、(欧米諸語では代名詞を使用する場合でも)代名詞を用いずに、名詞をそのまま繰り返すことがある。特に日常会話では、英語と比較して人称代名詞の数は非常に少なくなる。翻訳で「自然な日本語」にするためには、原語の代名詞は、繰り返しがくどいようならば削除するか、本来の指示内容の固有名詞に戻すか、一般名詞に置き換える。ただし、削除すると文脈上あいまいになり、また本来の名詞に戻すとその繰り返しがくどくなるような場合には、代名詞を使わざるを得ない。

また英語で、特に文学など技巧的な文章の場合は、同一の指示内容を別の表現で言い換える(paraphrase)ことがしばしば行われる。これは英語などでは、まったく同じ語を繰り返すのは幼稚であるという意識が働くからと思われる(反復の忌避、畳語については別項を参照)。

実質的には同一の指示内容であるとはいえ、言い換えられた表現には、それぞれ意味やニュアンスが付加されているため、簡単に削除したり元の名詞に戻したりすることはできない。それでもあまり素直に原文どおりに訳すと、日本人にとっては何の話をしているのかわけが分からなくなることがある。実際にはどのような処理をするかは、文書の性質や翻訳者のポリシーによって異なるだろう。

(23:23 02/05/19)+(3:57 02/05/22)


アーヴィン・ウェルシュ著、池田真紀子訳『トレインスポッティング』を読む。訳にひとつ気になる点がある。「イギリス人」「イギリス」という表現が出るのだ。 たとえばレントンが次のように言うせりふがある。「俺はイギリス人を憎んでなんかいない。やつらはやつらで、勝手にやらせておけばいい。俺が憎んでいるのは、スコットランド人さ。」(P. 82)英語でもEnglandとBritainが同義と解釈される場合があるが、これはスコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人には面白くないだろう。日本語の「イギリス」の語源はポルトガル語のInglezだそうだが、これは「グレート・ブリテンおよび北部アイルランド連合王国」全体をさすはずである。「イギリス人とフランス人」といった文脈では誤解の恐れはないだろう。だが、スコットランドが舞台である以上、Englishはイングランド人、Englandはイングランドと訳さなければおかしいのではないだろうか。(23:10 01/08/15)


命令形の訳について。

マニュアルでは"Click this button."は「このボタンをクリックします。」と訳す。英文は命令形だが、和文は何だろうか? 丁寧体で命令形、つまり直訳では「このボタンをクリックしてください。」になる。だが、マニュアルでは「〜ください。」の命令形が連続するとうっとうしい。現実的な解決策が「〜します。」なのだが、この文は考えてみれば面白い。これは原文の「『あなた』を主語とする命令形」ではなく、「不特定の人を主語とする一般論の終止形」なのである。言い換えれば本質的には命令だが、形式上「次の動作を推奨する」ということになる。(実際はたぶんそのボタンをクリックしないと話が進まないため、マニュアルの読者=ユーザーは否が応でもクリックせざるをえない。丁寧に言われたところで選択の余地はないのだ。)

「このボタンをクリックします。」の表面的な意味を英語に置き換えると次のようになるだろう。

"(In this case) one should click this button."

あるいは

"(In this case) one clicks this button."

(15:44 01/04/21)


日本の芸術はartではない。

日本の近代はmodernではない。

日本の宗教はreligionではない。

日本語における芸術、近代などの語と、欧米語のart、modernなどの理解、意識の差は、あまりにも大きすぎる。翻訳をしていると、その差の大きさに直面せざるを得ない。

日本の近代は広義の「翻訳」の歴史である。日本の近代は翻訳で始まり、翻訳で支えられてきて、いまもそうだ、といえば言いすぎだろうか。解体新書以来、数知れぬ翻訳によって科学技術は支えられてきた。文化面では、多くの小説が影響されたのはもちろん、「日本固有」と思われているマンガやアニメでさえ、手塚治虫経由でディズニーの影響が根底にあり、またテレビドラマ、バラエティー番組、映画の基本形にも大きな影響がある。音楽に関しては言うまでもない。服装・ファッションもしかり。日本の近代は翻訳そのものではないにせよ、広義の翻訳に基づいていることは間違いあるまい。

だが、むろんその過程で「翻訳できなかったもの」がなかった、とはとうてい言えない。いや、「翻訳できなかったもの」の方が多いのだろう。翻訳者としては、そのことを心に留める必要がある気がする。(1:03 2001/04/09)


翻訳を引き受けるときの鉄則がひとつある。

訳文を何に使うのか、その用途を確かめる、ということである。実は用途がよく分からない翻訳の依頼がときおりある。たとえば伝言ゲームのように依頼が何人も人手を経由した場合である。むろん訳文自体は変わらないが、元の依頼者の意図が十分に翻訳者まで伝わらない。用途はともかく、何についての翻訳かが読むまで分からない場合もある。これは宇宙人タイプと呼びたい。宇宙人が唐突に手紙を書いて来たとしよう。受け取った側はなぜ宇宙人が書いてきたか、何についての手紙か事前には分からない。従って原文の内容を解読して判断するしかない。

もちろん、翻訳者は「そこに原文がある限り」原文が何についての文章か理解できて当たり前である。(しばし首をひねることがあったとしても。)ちょっと考えると、用途は聞かなくても翻訳というものはできそうである。読めば分かって当たり前であるから、翻訳者にとってはこれは何の翻訳か、という問いはちょっと聞きづらくもある。だが、どう訳文が使われるかは、予想外の場合もある。最悪の場合は翻訳者が予想した訳文が、その予想と異なる用途に使われた場合、依頼者の方は訳に満足できないであろう、ということである。どうみてもラブレターの文章が実は何かの製品のマニュアルだった、などということはない。だが、一般向けなのか、技術者向けなのか、細かい説明がいるかどうかといった「読者が誰か」という問題は極めて重要である。訳語は、原文の用途と訳文の用途の両方を考えて決定する必要がある。従って翻訳を引き受ける時点で、訳文がどのような用途に使われるか確認しておく必要があるわけである。(21:05 2001/03/24)


翻訳における文脈の限定性の問題。一つの文(sentence)を訳す場合、その文が使われる状況がどのようなものであるかを考える必要がある。このとき特化した訳(特定の文脈においてのみ正しい翻訳)と一般的な訳(ほとんどの文脈で正しい翻訳)が可能だろう。前者はある意味では自然だが、その特定の文脈以外ではまったく不自然となる。OKはある文脈で「いいとも」と訳すことができる。だがこの訳は別の文脈では明らかに不適切である。"Are you OK?"と聞かれたときに"I'm OK."と答える場合である。特化した訳では訳の有効範囲が極めて狭いのである。後者は他の文脈中ではややぎこちないが特定の文脈に依存しない。OKを「OK」と訳した場合、ほとんどの場合は最適な訳といえないまでも「いいとも」よりは不自然ではあるまい。文脈における最適化を犠牲にしているかわりに訳の有効範囲が広い。

さて、文脈が与えられているときは文脈を考慮するのは当然だが、問題は与えられたのが一つの文でしかない場合である。この場合、特化した訳が正しいといえるのか、一般的な訳が正しいのか。文脈の重要性が了解されていれば、どちらが正しいとも言えまい。そもそも、およそ文脈の重要性が理解されていない場合に「一文を訳せ」という状況が出来するのである。よく見かける「翻訳テスト」においては出題者による文脈の思い込みがあり、それと偶然にも一致しない場合は評価されないのである。(18:38 00/10/17)


翻訳と文脈は切り離せないものではないだろうか。文脈の理解はしばしば軽視されているようである。一文だけを取り出して翻訳の例としても意味がないことが多いように感じる。特に文芸翻訳においては文脈が口調や文体を決定する。その文脈を読み取ることができなければ文単位での翻訳が「正確」でも、全体としては不正確、不適切な翻訳と言わざるをえないだろう。極端な場合は小説なら最初から最後まで読まなければ適切な翻訳ができないこともある。どうしても一文だけを翻訳しなければならない場合は、汎用性がもっともある翻訳ということになる。だが、そのような翻訳に翻訳の技術のすべてが反映されているとは言いがたい。

よりはっきりとした例では、反語表現がある。反語か疑問かは文脈によって正反対になることがある。また、"cry"は「叫ぶ」と「泣く」のどちらか判断に迷うこともある。文単位の翻訳の訓練は文単位でできるだろうが、文脈を汲み取ることは長文を読むこと以外に学ぶ方法はないだろう。(0:58 00/10/02)


「踊る小人のチェックを一通り終えて部分を公開する。訳していて気がついた。直接話法で語り手が男性で、女性の語りを引用する場合、引用部を真に迫った女言葉にするのは考えてみれば妙だが、演出上は仕方がない処置だ。そもそもあまりにも克明で説明的な語り自体がすでに「文学的」特性を持っているのだが。(20:09 00/08/23)


文芸翻訳の諸問題。「字義的な意味を変更する翻訳処理」について。
その二。語の分解。訳語が一語では意味的に不足する場合。解釈上、自然な日本語にする場合は原語の語義を分解して二語以上を訳語とすることも必要であろう。これとは逆に原語の冗長な修飾、過剰な修飾、不要な文の要素の処理をすることもある。これも明らかに意味が変わってくる場合もあるが、文芸翻訳においては日本語としての自然さを優先させるべき場合もある。例えば"very"を単純に「非常に」と訳すと冗長になるケースがある。文芸翻訳では"I'm very hungry."を「わたしは非常におなかがへっています。」と訳す人はいないだろう。また"I think 〜"をいちいち字義どおりに訳出すると、くどい場合もある。「〜のようだ」あたりの訳がすっきりすることもある。意味的に無視できない場合はともかく、文要素が文脈的にあまり重要でない場合は語彙の選択によって表現を工夫するべきだろう。だが、このような処理がよく理解されないため、よくある「誤訳」論争の元になることも多いのではないだろうか。このような翻訳処理を行う場合でも、仕組みを踏まえて処理しているかどうかは大きな違いだ。(22:59 00/08/04)


文芸翻訳の諸問題。「字義的な意味を変更する翻訳処理」について。翻訳は原文の意味を保持するのが原則である。だが、状況によっては訳文の自然さ、理解の補助という観点から字義的な意味を変更する処理をした方がよい場合もしばしばある。(多くの「学者訳」ではこのような配慮がされないため不自然で読みにくい訳になる。)

その一。慣用表現の置き換え。字義どおりの意味がずれていても、慣用的に日本語の表現を優先させる場合。本筋と関係なく、また文化的特色として提示する意味が少ないと判断される場合は、たとえ字義どおりの意味にずれが生じても慣用表現としての自然さを優先させる。"The side of her face"という表現は「彼女の顔の横」では日本語としてはやや不自然である。正確さでは妥協せざるをえないが「顔の横」とは言わずに「頬」というのが自然ではないだろうか。(21:35 00/08/03)


学者訳の特徴と問題点。学者による翻訳はある意味では正確なのかもしれないが、多くの問題を持っている。語彙が一般的でない。語の用法が一般的でない。長文が読みにくいことに気がつかない。漢字、漢語が不自然に多すぎる。難しい語彙を不必要に用いたがる。文芸翻訳においては文学的表現を移しかえて翻訳することは必要だが、原文には存在しない過剰な修飾要素を付け加えたりする。要するに変に気取っているのである。逆に正確性にこだわり過ぎるあまり文章としての自然さ、文学性を無視しているケースも少なくない。これらは翻訳の初歩的な問題と共通する点が多いが、最悪の問題は、学者は自信があるために、これらの問題を問題と捉えようとしないことである。そもそも自然で正しい日本語の書き方ですら通常学ぶ機会は少ないものである。翻訳の技法というものを、ある程度まとめて考えてみる必要があるのではないだろうか。(23:22 00/08/01)


翻訳について。翻訳家にしかその良さが分からない翻訳とは良い翻訳と言えるのだろうか。翻訳の良さは訳された言語を読み書きする者なら誰でも分かるはずではないのか。小説や絵画、建築などでも「専門家」にしか分からないものは多い。奇妙な翻訳が現実にまかりとおっている世界でいくら「この訳は変だ」と翻訳者が言っても、言い出すまで誰も気づかないなら、翻訳の技能を向上をさせることの意味は何か。(明らかな誤訳や速度の改善はともかくとして。)もっとも、翻訳を批評する者が誰もいなければ翻訳という営為の質が向上しないのも事実だ。

自分の翻訳に関しては、翻訳者はまったく客観的に見ることはできないかもしれない。これはどれほど経験のある翻訳者でも同じだろう。ミスは減らすことはできるが、なくすことは難しい。経験豊かな翻訳者が1%しかミスをしないとして、経験不足の翻訳者が3%のミスをするとしよう。この程度の経験不足の翻訳者が三人共同で翻訳をしたら、一人の経験豊かな翻訳者のミスより少なくなるかもしれない。(1:19 00/06/09)


文芸翻訳、および創作の諸問題。女言葉の訳し方を見れば、訳者が女性か男性か分かりそうだ。それほど翻訳の中で不自然な女言葉は多い。女言葉を過剰に使いすぎるのが不自然なのだ。(私はここで女言葉自体を否定しているのではなく、不自然な使用に違和感を覚えているだけである。)今から30-40年前の翻訳、そしてそれ以前の時期を含む小説では一般に現在の感覚からすると女言葉が過剰に感じられる。それは男性の訳者・作者が「女性はこう喋るだろう」という思い込みによるものだろう。女言葉、男言葉というのは文芸翻訳の中で、また文化の問題としてどれほどまともに取り上げられてきただろうか。日本人にとっては当然過ぎるから目を向けることが少ないのかもしれない。日本の学校で教えることはないだろうが、外国語としての日本語を学ぶ教科書にはちゃんとセクションを設けて取り上げられている。(それでも日本語学習者にとってはややこしい問題だろう。)文法的なものではないが、女言葉、男言葉は日本語の表現力の豊かさの反映でもある。読みにおける話者の特定(「今だれが喋っているのか」)は日本語では会話文自体に吸収される。日本語に訳すときに "--, s/he said." は可能なら切り捨てられる。(女言葉、男言葉の区別がない英語ではこの表現がないと誰が喋っているのか分かりにくい。)日本語では会話の表現の対比により話者が特定される。男女間の会話なら女言葉、男言葉であり、力関係では尊敬語、謙譲語、人称の変化(かしこまった「わたし」「僕」、威張った「わし」「俺」)などである。会話表現による話者の特定の例は『源氏物語』などの古典でよく知られている。(特に『源氏物語』では身分の違いが明確に出ることも多いようである。)現代の小説でも、男女間の会話、また力関係は当然会話に反映される。(これは異性間の力関係が常に男性優位になるというわけではないはずである。だが女言葉はそのようなものだ、と捉える人もいるようである。もっとも一人称でボクという若い女性は別にそのバランスを回復しようとしているのではなく、単にtranssexualな好奇心からであろう。)(12:24 00/05/13)


本当の『本当の戦争の話をしよう』の話をしよう。(ティム・オブライエン著、村上春樹訳、文春文庫)もちろんこれは反戦小説などではない。オブライエンは冒頭に「これはフィクション」と書いておきながら、どこまでフィクションかははっきりさせない。(はっきりできない理由、というものもあるだろう。それはプライヴァシーの問題や記憶の曖昧さの問題などだ。)これは言ってみれば「小説のための小説」なのだ。だがその点が私を居心地悪くさせる。私は戦争を知っているなどというつもりは毛頭ない。だがこの本が日本人の若者に読まれたとき、戦争が小説化されてしまう気がしてならない。この本は小説としては面白い。だが結局「ヴェトナム戦争の話」だ。何人の日本人がヴェトナムで戦って死んだのだろうか。ヴェトナム戦争の記憶が単なるアメリカへのあこがれの一部にされないだろうか。(それもこのヴェトナム戦争の記憶はアジアではなくアメリカの視点から、である。)この本を読む時は『きけ わだつみのこえ』も読んだほうがいい。(この戦没学生の遺稿集は政治的に利用されているという声もあるが。)

翻訳としては見事なまでに春樹化している。もし村上以外の誰かが「メロウだねえ」(p.61)とかいう訳をしたら無視されるか、文句を言われるだろう。疑問点。「ゴースト・ソルジャー」にでてくる「ショック」が「あたし〜、それちょーショック〜」などといった単純な心理的なものではなく、医学用語であることが読者に伝わるだろうか?それが伝わらなければ、なぜオブライエンが新米衛生兵ジョーゲンソンがショック状態のことさえ知らなかったことにこだわっているのか(p.311)、読者は分かるだろうか。(22:10 00/05/08)


文芸翻訳の諸問題。訳注の問題。説明が必要な言語に対しては訳文の中にさりげなく説明を展開するか、注を入れる必要がある場合がある。学術的な翻訳では注を入れるのにためらう事はない。だが文芸翻訳では、読みやすくするという点では注は可能な限り避けるべきだろう。割注はともかく文末注は娯楽作品では使用する機会はないだろう。そもそも注は野暮なものである。どこまで読者が知っているのか。それが問題だ。「知っている人は知っている」言葉をどう扱うか。自分が辞書を引かなければ分からず、本文中に解釈の手がかりがまったくないうえに、文脈上重要な固有名詞などは注を入れざるを得ないかもしれない。また複数の語義をもつ語などでも必要だ。ルビをうまく使うことで問題を解決できることもある。村上春樹は「担ぐ」に「ハンプする」とルビを振った上で割注で(hump−背中の瘤のこと)と入れている。(『本当の戦争の話をしよう』文春文庫、p.18)(14:04 00/05/06)


日本語の表現と英語の表現の違い。

「あたし、猫なの」
「余は猫であるぞ」
「わたくし、猫でございます」
「俺は猫だぜい」
「うちはネコや」
「吾輩は猫である」
「ボクはnekoさ」
「オラ、ねこだっぺ」
「我は猫なり」

そして

"I am a cat."

(00/04/22)


文芸翻訳の諸問題。一部の慣用表現を除いて、和訳の訳語として「小田原評定」など中国・日本の故事、人名地名などの固有名詞に由来する表現は訳し過ぎと考えられる。どこまで訳すべきかという境界線は結局翻訳者の判断に委ねられ、それが翻訳者の個性ともなっている。訳しかたがこなれていないと不自然な日本語となる。だが訳し過ぎると原文が持っていたイメージがこわれる場合がある。訳し過ぎの防止をするために「基本的に英語でスムーズに説明できない日本語の語は使用しない」という方針を採用すればよいのではないだろうか。例えば「富士額」という訳が、ある非常に売れている本の中にあった。(別の場所で二回ほど使われている。しかも禿げた中年男性に対してである。富士額は美人の形容のはずだが。)富士額を英語で簡単に説明できるだろうか?逆に英語ですんなり説明できる語は、原文の世界のイメージを無理なく伝えることができると言えるだろう。(16:09 00/04/21)


文芸翻訳の諸問題。翻訳と創作。創作経験がなければ文学作品の文芸翻訳がまったくできない、ということはないだろう。だが創作経験があれば文芸翻訳に役立つと思う。原作者がどのように作品を組み立てるかという過程を一端でも知ることができれば有益ではないだろうか。翻訳は最低限一定の時間を要するが、よほどこだわらない限り一定以上の時間はかからない。一般に事前調査や最終チェックには時間がかかるが、問題が解決すればすんなりいく。それに対し創作作業は早く書く人は早く書くだろうが、時間がかかる人は数年から数十年もかけて推敲を繰り返すだろう。私は自分で少しでも書いてみようとするうちで、作品の読み方が変わったことを自覚した。自分で書く作業の経験を経ることで、複数のレベルで作品の修飾的構造、文学的構造が以前よりは分かるようになった。(13:27 00/04/14)


文芸翻訳の諸問題。翻訳では伝わらないもの・翻訳の限界。翻訳は文化的な差異を吸収する行為である。だから翻訳は原語の文化事象の一面を意図的に伝えない。もちろん文化的事象がそのままでは対象読者に伝わらないであろうからこそ、翻訳が行われる。理論的には原語の文化事象(修飾要素)を適切に訳語の文化事象(修飾要素)に置き換えることが翻訳なのだろう。もちろんベストを尽くして置き換えるわけだが、翻訳で伝わらないもの、さらに言葉だから伝わらないものもある。すべてを伝えようとすれば注だらけになるだろうし、それでもなお伝わらないものがある。私がイギリスとアメリカで生活する前に読んだ翻訳を、今、原文で読むと印象が明らかに異なる。実際に生活しないと実感できないものはたくさんある。だが原語の文化を理解する最良の方法がその国や地域に住むことであっても、翻訳の読者にはそれを要求するわけにはいかない。文化的な事象を日本の文脈の中でどこまで置き換えるかは難しい問題だ。日本的文脈での置き換えが行き過ぎると訳し過ぎ、原語文化を残しすぎると訳し不足になる。日々アメリカナイズされ、その他の西洋の影響を受けつづけている日本でこのバランスを取りながら翻訳するのである。"OK"を「オーケイ」と訳すか「いいとも」と訳すか、あるいは文脈によって別の訳にするか…伝える必要があるのかどうかの判断は難しい。(13:33 00/04/13)


翻訳一般の諸問題。日本では義務教育を受ければ英語は誰でも習う。翻訳は意味が通じればいい、翻訳は誰でもできると考えている人もいる。だがクッキー会社の翻訳で食欲が減退するような誤訳をすればそのクッキーを買う人は減るかもしれない。医療分野の翻訳で誤解を招く翻訳をすれば命に関わることもある。文芸翻訳では事情は微妙だ。結局何がいい翻訳なのかという基準が明確ではない。資格試験はあるが、翻訳に携わる人に比べてたとえば翻訳技能審査を受ける人はそれほど多くはない。その翻訳技能審査では結局何が問題にされているのだろうか?人称代名詞をどれだけ削るべきかという問題なども結局好みにまかされている。(意味が通じればいいと考える人にはどうでもいい問題なのかもしれない。)臨機応変とは聞こえがいいが、本当にそれでいいのだろうか。他にも例えば文章を書く訓練そのものは必要ないのだろうか。(私がここで念頭においている文章の訓練とは、綿密に研究され徹底的に体系化されたシカゴ大学のLittle Red Schoolhouseである。)結局のところ、十分に体系化された翻訳学は日本にはまだ存在しないように思える。(17:29 00/04/12)


文芸翻訳の諸問題/文芸翻訳と外国生活。文芸翻訳をするのに外国生活をする必要はあるだろうか?あれば極めて有益だと私は思う。このような問いは翻訳の世界では禁忌なのだろう。現実には日本で翻訳をするには外国生活何年ということはまったく要件とされていない。翻訳の先生の先生の先生の先生はそんなことしていなかったかもしれないからである。外国で生活していたしても、会話についてゆけないなら、会話の感覚を本で読んだだけでニュアンスがつかめるだろうか?人との対話があるのか?会話ができないから翻訳をする、というのでいいのだろうか?本で読んだだけで分かったような気になるのは日本人が英語ができないと言われることと大いに関連している。本で読むだけだから本の世界が過剰に美化される。外国はそんなに遠いだろうか?日本国内で北海道から沖縄まで行こうとすれば、同じ料金で地球を半周できるだろう。そうしないのはひとえに心理的な要因である。もしある程度の効果を求めるなら短期間の旅行ではなく、生活する必要がある。もちろん翻訳しようとする言葉の国にいちいち住まなければ翻訳できない、というわけでもないだろう。だが外国での生活は大いに考え方に刺激になるはずである。外国を表現するのにそもそも「海外」というのは日本語ならではの響きがある。日本の精神的鎖国はまだ続いている。(13:06 00/04/11)


日本文学の良さ」について、ある青年との対話で。「非日本人が日本文学の良さを理解するには、やはりある程度日本についての知識が必要でしょうね。芸者=prostituteだと思っている人に永井荷風の『腕くらべ』の世界がどれだけ分かるだろう。適切な説明は必要だし、有益だと思う。日本語がそもそも特殊といえば特殊です。非日本人に日本語や日本文学が説明不能とはいわない。だが十分な説明が必要です。で、私は日本文学の良さは日本語の特殊な点に依存する部分が少なからずあると思う。自然の描写は季語、歌枕や枕詞などの伝統をついでいると言えるでしょう。自然の美を描写する伝統は(絵画における風景画同様)西洋では主流ではありません。漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字という表記の多彩さもあります。ルビもあります。同音異義語の多さや定義のあいまいさからくる多義性も重要です。また一例をあげるなら男言葉、女言葉。文芸翻訳でもこれがうまく訳せてないと問題です。もう一例は敬語。身分制度が前提となる歴史的な文学、あるいは歴史的背景を持つ文学では重要な要素ですね。さらにひとつ挙げれば会話に彩りを与える終助詞かな。(小説と詩などではまた見るべきところが変わりますよね。)私は欧米の文学=普遍的とは思いません。」(22:51 00/04/02)


柳瀬尚紀『翻訳はいかにすべきか』を読む。なるほどと思わせる個所もある。だが、氏は『ユリシーズ』岩波文庫版(1932)の訳で"G man"を「G組の巡査」と訳しているのを嗤っておられるようだが(p.23)、ダブリン市警にはG課が確かに存在し、G-manはそれに基づくであろうことをWebster's New World Dictionary(3rd ed.) は指摘している。確かにG組では読者はよく分からないだろうが、まるで的外れという訳でもない。G-manはアメリカ英語ではFBI捜査官である。つまりモルダーとスカリーはG-menだ。G-personという語が果たして存在するかは定かではない。(2:42 00/03/28)


文芸翻訳の諸問題。訳し過ぎと訳し不足。訳し過ぎは不自然なくらい日本的概念に置き換えてしまうことで、訳し不足は原語の特徴を残しすぎる傾向である。古い翻訳では訳し過ぎの傾向がある。西洋化(大時代な言葉と思われるかもしれないが、近代というキーワードで考えてきた者にとっては重要な概念だ)がより進んでいる最近の翻訳は訳し不足気味である。翻訳の初心者は常に訳し不足気味だが、そのレベルではそもそも日本語として不自然すぎるという点がある。ここでいう訳し不足はとりあえず日本語として通用するが、どちらかというと原語寄り、という程度のことだ。どちらかといえば私の訳は訳し不足の傾向があるようだ。このバランスをとるのが難しい。(13:36 00/03/25) 


キプリング「モウグリの兄弟たち」の翻訳を再開しました。狼に育てられ、ジャングルの民と「ヒト」との間で揺れるモウグリ。海外生活が長い方、「帰国子女」と呼ばれる方、両親の国籍が異なる方、そのほか「自分が何ものか」「自分が帰るべき場所はどこなのか」という問いを持つ人にはぜひ読んでほしい作品です。つづきが読みたい方はメールでお知らせください。(19:51 00/03/13)


文芸翻訳の諸問題。「仏さんはメアリの知らない人物だった」「ジャックはコーヒー茶碗に口をつけてすすった。」「ジョンはその土××門の顔を覗きこんだ」「下手人はトムだ!」などという表現をどう思われますか?このような訳を避けるのは基本的事項と考える人がいる一方、これらを気にしない翻訳家はたくさんいる。(とくにK文庫では。)私個人は「非日本的文脈での日本的表現」は避けたい。誤訳というよりは好き嫌いの問題かもしれないけれど。(15:37 00/03/11)


予想より仕事がはかどっているので今夜は徹夜せずに済みそうだ。「まだらの紐…」を公開してしばらくになるけど、いまだ感想が来ないのは悲しい。(このサイトの基準では)そこそこのアクセスがあるのだけど。訳が下手とかここが変などという感想でもいいから何か書いてくれればうれしいです。感想があれば大いに励みになります。翻訳するのはなかなか大変なんだよ…(1:01 00/03/08)


話題が戻るが、人称の話である。「身分は低い」が勇敢な若者がお姫様に呼びかけるときは「あなた」だろう。その若者が首尾よく冒険をし遂げてその姫を娶れば「そち」とでも呼びかけるのだろうか。ところが、英語では(くどいようだが) you は you である。上記のような細かい人称の切り替えが必要になるのは日本語にするときなのだ。(21:36 00/03/06)


Lord Dunsany、荒俣宏編訳『妖精族のむすめ』を読む。表題作は人魚姫を想わせる。ジェインが名のりたがった Terrible North Wind や Song of Rush という名などはまるで今時のユニットにありそうだ。「サクノスを除いては破るあたわぬ堅砦」「女王の涙をもとめて」「ヴェレランの剣」などいずれも面白い。「人格化された都市」というイメージは興味深い。ギュスタフ・モローを連想させるシドニー・シームの挿絵もいい。このような作品をいつか翻訳してみたいものだ。荒俣氏の訳したものではG・マクドナルド『リリス』も想像力を刺激する幻想的な物語である。(22:43 00/03/05)


喩えるなら英語はオートマ車で、日本語はマニュアル車だ。その心は?(18:03 00/03/04)


(昨日の続き)ご存知のように英語では人称には区別はない。女王様、王様に呼びかけるときも you は you、誰にとっても I は I だ。(少々例外もあるが。) 日本語では一人称は ぼく、私、俺…、二人称は君、お前、あなた、貴方様…と続く。小説などでは人称の豊かさを活かすことができる。(文芸翻訳でももちろん考慮に入れる。)だが、日常では人称を気にするのはわずらわしいこともある。その点、英語なら頭を悩ますこともない。(1:24 00/03/05)


後一冊しか図書館で借りられないので、散々迷った挙げ句アン・マキャフリー『クリスタル・シンガー』を借りて読む。息抜きのつもりでもつい翻訳者の目で読んでしまう。アメリカ人が書くとSFでもファンタジーの異世界でもアメリカ的価値観が強烈に出てくるのは愉快である。ツッコミを二つ。音は真空の壁で簡単に遮断できるのでは?星外に出ると共生生物もばら撒かれるのでは? (00/1/24)


transPC経由でドイツからF1関係の翻訳を大量に受けている。今まで縁がなかった世界だがなかなか面白い。 (00/1/19)


『ジャングルの書』がなぜ私にとって面白いか。それはジャングルの民とヒトとの帰属に悩むモウグリに、感情移入できるからだろう。若いときに日本の外で暮らすと自分と母国の関係を考えざるを得ない。 (00/1/17) 


キプリングはやはり面白い。(00/1/13)


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