文学の話題

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昨日の話題 から文学に関する話題を抜き出しました。

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ひとこと 芸術・美学 ] 翻訳 ] [ 文学 ] 音楽 ] 映画 ] 過去 ] 文化 ] [ その他


村上龍『オーディション』を読む。(以下ネタバレあり)読者が村上龍という名前だけで買っていくのだろうな、と思わせる表紙である。

最初、私は何か「文学的」なものをどこかで期待していた。その期待はあっさり裏切られた。これは娯楽だったのだ。

登場人物の若い女性も高校生もどこかオジサンくさい。語彙が過剰で、思考パターンが古い。

一般に、二十代の若者の考えなどが文学に現れることはない。五十代のオッサンは二十代の若き日の情熱など思い出せないから書きようもないし(あるいは書いてみたところで美化されているだろう)、今二十代の若者は無理に背伸びをして、今の自分の考えを素直に書かないからである。

主人公・青山の息子、重彦の言葉。「美人で性格のいい子なんて、クワガタの何百倍もレアなんだぜ、イリオモテヤマネコとかオオサンショウウオとかトキとか、そんな感じじゃないかな」(P.97)女性を動物にたとえるのはデリカシーがないが(とはいえ昨今では好んで動物に見立てるのがはやりだそうだから、恥じ入ることもないかもしれないが)私にはこの一言がこの本の中で光り輝いて見える。美人の女性は多いかもしれないし、性格のいい女性も少なくないだろう。だが両方を兼ね備えた女性は「恐ろしく」少ない、というのが私の僅かな人生経験で言えることである。外面的に美しくあろうとする心理は他者を押しのける心理と紙一重なのだろうか。無理がない無邪気な魅力というのは、性格的な基礎がなければ不可能だろう。真の「美人」というのは顔かたちではなく、性格のにじみ出るものではないだろうか。とはいえ、この本の主人公は外見にころっと騙される。我々も騙されないという保証はあるまい。

この本では、オーディションというせっかくの道具立てが、半分もいかないうちに消費されてしまう。後半はオーディションとはなにも関係がない、トラウマという小説的にはひどく平凡な動機が示される。だが、女性の隠された心理の恐ろしさというものを改めて思い出させてくれる。

(21:42 01/09/14)


『小栗虫太郎集』所収「黒死館殺人事件」を読む。ごてごてとした道具立ての連続は、登場人物への感情移入を許さない。登場人物の嫌味なところしか残らない。その結果、犯人がどうでもよくなってしまう。物語としては極めてつまらない。娯楽としては人外魔境シリーズの方が面白い。
設定上の疑問としては、法水は医者でもないのに勝手に死体に傷をつける(P. 221)ことができるか、といった点もある。登場人物ほぼ全員が、英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語の語学を始め、医学、歴史、文学の各分野に同じ程度の教養をもっていなければならず、なおかつ何かしら特異体質を持っていなければならない。

法水麟太郎、殺人を防ごうとする覇気に欠ける。ホームズは冷淡ではあっても、ここまで非人間的ではない。殺人の「技巧性」ばかりが強調されすぎて、読後感が悪い。誰かの言葉を引用する前に「〜じゃありませんがね」と言ってみせる。

「どうして、僕はヒルシュじゃあるまいし……。」(P. 625)

「ああ、僕はシュライマッヘルじゃないがね。」(P. 460)

いやらしい。ここまで嫌味な人物像を完成させたのはまれに見る快挙というべきであろう。この作品はミステリーであることを放棄している。読者は自分で何かを発見する楽しみが奪われている。 弩の矢が髪にからまって女性を吹き飛ばす(P. 464)など、小栗の作品における物理法則や蓋然性を無視した状況的都合のよさは、ファンタジーとしてのみ受け入れられる。 (だが、小栗自身はそれをファンタジーとして提示することを拒否し、ミステリーとして読んでほしいらしい。)

イメージの量と濃さは(時代は違うが)エーコを思い出させる。日本人でここまでこてこてに書ける人もやはり珍しい。しかし、そのイメージの宝庫も、日本人にとっては所詮借り物でしかない。読者と共有できねばイメージの存在意義もなかろう。

小栗の長女・栄子の写真が妙にかわいい。(20:27 01/08/21)


山手樹一郎『遠山の金さん』を読む。江戸を舞台にした時代小説などでは、庶民性とヒーロー性を併せ持つことが必要である。大衆は欲張りである。ヒーローはヒーローらしくあってほしいが、あまり自分たちとかけ離れずに、親しみもわくヒーローを求めている。相当数の時代小説が同様の問題をなんとか解決しようとしている。たとえば、普通の侍、旗本、将軍など主人公だと、威張るだけで現代のわれら大衆には面白くない。かといって普通の町人が主人公だと侍が出てくる場面はいちいちへいこらしていなくてはならない。これでは庶民の不満は解決できない。そこで登場するのが、両面を併せ持つ「庶民的ヒーロー」の登場である。ヒーローが本当の身分や能力を隠すという構造は、『水戸黄門』『暴れん坊将軍』も同じだし、普段は新聞記者の「スーパーマン」もやはり同じ構造を持っている。

遊び人の金さん<=>北町(後に南町)奉行 遠山左衛門尉景元(旗本)
ご隠居<=>元副将軍 徳川光圀
デイリー・プラネットの記者クラーク・ケント<=>スーパーマン

さて、山手の金さんは北町奉行以前の金さん、若き日の金さんである。ある種の時代小説には「さりげなさ」の配慮がなく、やたら自分の強さを見せびらかす主人公が出てきたりするものだ。一部作者による金さんはこの部類に入る。だが、この山手金さんは奉行という地位を振り回さない。(奉行になる前だから当たり前でもあるが)桜吹雪を自分から見せびらかしたりもしない。実に共感できる。

ヒーロー状態になるのをつねに自分で抑制しているのである。ヒーロー性はおのずからにじみ出るものである。自分で言っちゃあ、お仕舞いである。偉ぶらずに、岡っ引の重五郎の手下のふりをしてみせたりもする。刀をびらびら振り回さないのもよい。全体的に推理小説色が強く、ホームズ的金さんである。常に誰かに引っ張り出され、その都度「おれは岡っ引じゃねえ」さっと身を引くのもさっぱりしてよい。

おそらくこのシリーズの最高の場面は、第一話の最後で、金さんが屋敷に帰らないためにほりものをしようと思いつくシーンである。ほりものをしてやろう、と思い立って桜が目に入り、その場で「桜ときめたぜ」というのである。あっという間の決断である。(金さんのほりものは手紙をくわえた女の生首という説もあるが、それはさておき)そのいさぎよさの描写が実によい。(17:51 01/06/27)


『おもろさうし』を(少し)読む。沖縄・奄美の島々の古謡である。脚注があるとはいえ、言葉のニュアンスが直接理解できるわけではないから、目で撫でたと言ったほうが近いかもしれない。

どこが面白いかといえば、日本語でありながらも言葉の感覚の違い、価値体系の違いが新鮮なのだ。カルチャーショックである。当たり前だが「島」が舞台の世界であるわけだ。以前にもグスクについて書いたが、おもろもまたこちらの勝手な思い込みを裏切って、意外に好戦的である。「島討ち」というのが島を討伐することらしい。

「明けもどろの花」は「太陽が水平線から昇る瞬間の光の渦」だそうだ。地平線、ではないのである。(もっとも日本で地平線が望めるのは北海道くらいだろうが。)島だから水平線から日が昇るのが当たり前なわけである。詩的ではないか。

また、美称辞が非常に多い。「鬼の」という語があり、これも美称だそうである。「鬼の君」とは霊力豊かな神女のことだそうだ。「鬼のように」という若者言葉がある(あった?)ようだが、これは程度がはなはだしいことを示す。語義的にずれはあるものの、一種の先祖がえり現象かもしれない。

(1:18 01/04/25掲載、16:15 01/04/25追加)


瞿佑『剪燈新話』(東洋文庫)を読む。中国の古い話には美女が多く登場するが、いずれも単に外見の美しさに留まらず、知性と教養を持っていることになっている。みんな文学少女で、故事をすらすらと引用する。そのような才女が突然出てくるのは男性読者の理想の都合だからといえばまあそうだが、面白い点ではある。男は女の才能に惚れるのである。

『剪燈新話』には牡丹燈篭の原作にあたる話がある。女の幽霊、麗卿は一種の吸血鬼とも考えられる。この話は、やがて上田秋成『雨月物語』中の「吉備津の釜」につながるようだ。「吉備津の釜」にしても牡丹燈篭にしても、見事に日本化されてはいる。「吉備津の釜」のラストシーンは背筋を寒くさせるという点ではすばらしい。とはいえ、やはり日本人は元ネタがあってこそ、いいものが作れるという実例のようにも思える。(2:38 01/04/23)


KeioPenclub 掲示板での書き込み。

「大雑把に考えるとミステリーは最終的に明かされる答えのある謎、ホラーは答えのない謎かと思います。答えがあるかないかよく分からないようにして、読者・観客を「結局あれは何だったんだ」という心理にさせて余韻を残すのが、一番受ける方法という気もする。答えが見つかる過程は面白いかもしれないが、いったん分かってしまえば面白くないから。あるいはどこかに答えがある、と予期されてしまうとある意味面白くないかも。X-Filesはその点、成功していると思う。もっともモルダーの方がスカリーより正しいという暗示は繰り返しされているけど。

最近はやりの「DNAもの」(『ループ』『らせん』その他もろもろ)は奇怪な現象はまだ説明されていないDNAのせいにすることで完全に説明することを回避できている。(ゲノム解析が進めば娯楽が減るのではないだろうか。)

読者・受け手しか答えを知らない謎、登場人物しか知らない謎(作者が知っている必要はない)、両方とも答えを知っている謎、両方とも知らない謎というのがあるだろうけど、いろいろ考えると面白いです。

海野の場合はトリックというにはあまりに荒唐無稽だけど、こういうものと思って読むとむしろ結局常識に帰着するトリックよりはまだ読みがいがあると言えるかもしれない。「ありえなささ」が一線を超えていると思う。その点で私は海野の意外性に惹かれるのかもしれない。」(18:33 01/01/07)


ブンガクについての手紙1。

「自分で言うのも変かもしれないけど、俺って文学するには精神が安定しすぎてるんだよね。最近はたんに人間関係=刺激が不足しているだけなのかもしれないけど。

今まで書いたことがなかったことを書き付けるには、誰しもある種の抵抗がある。無意識の印象や記憶を意識へのゲートからあふれさせて、いかに意識化・言語化するか、ということが「創作的文章」の最初の課題だと思う。計画的にゲートが開きやすいようにはできるけど、「意識的に」開けることはできない。ゲートが開きやすい人(しまりのない人?)はわりとたくさんいる。俺の問題は意識での理性の力が強すぎて、無意識のゲートがすぐに閉じてしまうことなんだ。いや、ほんと。

言葉として意識化された無意識は、受け手の意識・無意識に刺激をもたらす。その刺激は作者の意図とは無関係に、受け手に幻想を生み出させる。でもそれだけでは、洗練された文学にはならない。次の段階としてどのように言葉を磨くか、ということが問題になるんだと思う。」(2:27 00/12/15)


人文メーリングリストより。

「とりあえず小説の場合を例にとろう。作者にとって、「どこかで読んだような作品」すなわち「陳腐な作品」というのは書きたくないものであろう。どこが陳腐になりうるか。人物像、筋書き、世界観、構成、会話の言い回し、事物の描写、すべてが陳腐になり得る。この点に関連して、作者にとって、自分と同じジャンルの自分以外の作品に対する接し方としては二種類あると考えられる。すなわち、可能な限り他の作品を読む、もう一つは他人の作品は読まない、である。

なぜか。前者の場合、他人の作品は参考になるから読む、という考えであろう。他人の作品のパターンを知った上でそのパターンを避ける事で新鮮さを求める戦略である。後者は、(単に面倒という場合はともかくとして)他人の作品を読むと影響されてしまうので読まないという考えであろう。

しかし、問題は他人の作品を読まなくても陳腐なパターンに陥ることがあるという点である。なんとなればフロイトやユングの説を出すまでもなく、人間の心理は無意識におよそ一定の傾向を示すものであり、同じようなことを考えつくからである。そうでない人間はよほど才能に恵まれた天才か、他人に決して理解されないほど独特の世界を持つ限りなく孤独な人間か、あるいはその両方であろう。従って私のような凡人にとっては、より有効な戦略は可能な限り多くの作品を読み、それらの作品にはないパターンを生み出すことが必要となる。それでも陳腐な作品になる場合はすなわち読み方が足りないか、他の作品からの訣別が不十分なのであろう。」(4:07 00/11/26)


永井荷風「ボク東綺譚」をまともに読む。(ボクはさんずいに墨の旧字)永井センセイはなれなれしく厚かましいじいさんと思うが、「ラディオからの逃走」には深く共感する。私は隣室のステレオの音には常々悩まされている。面白くないことに、その音量は昔のラジオの比ではあるまい。

六十三年前に「彼氏」「彼女」という言葉があったとは面白い。「環状線」もだ。およそ古い時代の文章には「この時代にもう、こういう言葉があったのか」という発見が多々あり、新鮮な印象を与える。まあそれほど驚くことでもないかもしれないが。(0:15 00/11/10)


文学と倫理。倫理的な文学とは何か。「完全に倫理的な小説」があるだろうか。平凡な人の平凡な暮らしを書いて、ぞくぞくする小説に仕立てることは至難の業だろう。非凡な人について書くか、非凡な出来事を書くか、あるいは非凡な人の非凡な行動を書くことになる。犯罪、不倫、異常心理などである。そこではモラルが何らかの意味で脅かされる。だが、モラルと「小説としての質」を両立させることは困難だ。

ある種の倫理的小説を認めるとする。だがそうすると、他の非倫理的小説の存在をなぜ許容できるのか、という問題が発生する。すべての非倫理的小説を撲滅しない理由は何なのか。どこまで倫理的であるべきか。その程度の倫理観でよい、という根拠はどこにあるのか。

小説中である種の倫理観だけ認めた場合も同じだ。ある小説が性差別の問題を扱っているとする。そうするとなぜその小説には人種差別や虐待や社会階級や貧困や宗教的な問題を扱ってないのか、という点が非難されれば、その作者はどうすべきなのだろうか。また「反倫理」的に思える小説は、既存の倫理の破壊以外にも「新しい倫理」を提示しようとしている場合がある。

聖書は倫理的といえるだろうか。(キリスト教徒であるか否かで見方が変わるだろう。ちなみに私は違う。)だがこの問いは実は「ひっかけ問題」である。信者の立場からすると、宗教的聖典である聖書の倫理性を問うのは無意味だろう。だが客観的に見ても、聖書そのものが倫理的であるわけではない。(聖書を用いて行われる説教は良くも悪くも倫理的である。)人間の弱さを描くと、人間の罪もまた書くことになる。そこには残酷な描写もまたある。面白からぬことではあっても実際、聖書にヒントを得た犯罪は過去無数にあるだろう。(そのことは聖書の意義を打ち消すとは思わないが。)虫も殺さぬ描写が倫理的な小説なのだろうか。(14:35 00/05/16)


『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を読む。(ジェームズ・ケイン著、田中西二郎訳、新潮文庫、1963年、原作1934年)昨今の翻訳と違い原文の調子が残る訳しかたではない。「キャリフォニア」(p.5)にはいささか吃驚する。「風よけガラス」(p.9)はたぶんいまではフロント・ガラスと訳すだろう。女言葉「〜の」が二行で四回出てくる。(p.21) 「おめえはおいらのかわいい赤ちゃんだ」(p.41) 今ではベイビーという語が日本語に馴染んでいる。主人公フランク・チェンバーズの一人称がぼく、おれ、おいら、おらあ、わっし、など唐突に切り替わる。こいつは一見柄が悪いようにも思え、抜けているようでもあるが、なかなか知能犯ぽいところもある。だが、それにしてもこの切り替えの多さは気になる。「黄色タクシー」(p.167) イェローキャブのことだろう。(9:52 00/05/12)


"Flower's of Evil"を聴く。ボオドレエルの『悪の華』である。CDのブックレットの表紙がいけてる。肩を剥き出し口を半開きにした色っぽい金髪姉ちゃんである。彼女、Yvette Mimieuxがフランス語ったるい英語で朗読する。そう、Francoise Hardyが英語で唄うときのような感じである。後ろでAli Akbar Khanらによるインド音楽が流れるという趣向だ。1967年の録音。(14:07 00/05/10)


レイモンド・チャンドラー著、清水俊二訳『かわいい女』を読む。原題はThe Little Sister 、1959年初版。ノックをせずにずかずか部屋に入るフィリップ・マーロウ。p.181「メイヴィスはどこで手に入れたんだろう」この自問しているのか訊ねているのかはっきりしない聞き方に受け取れる訳文は、村上春樹の文体に反映されているのだろう。(ちなみに原文ではどうなっているのだろう。)依頼人が「かわいい女」でなければマーロウは依頼を引き受けただろうか。ハードボイルドとはセンチメンタリズムをより効果的に演出するための手段に他ならない。だろうだろう。(16:35 00/05/03)


川端康成『雪国』を読む。主な出版社の文庫のほとんどに入っているようだ。歴史的な評価はともかく、「今」読んだ感想を記す。この重苦しい閉塞感は何だろうか。私にはこの人工的な世界に川端の表現したいのであろう「清潔さ」が読み取れない。冒頭の駅長の喋り方に違和感がある。新潟の駅長がこんな喋り方をするとは思えない。駒子のせりふに「だわ」「ね」が頻出する。もちろん2000年現在の二十歳前後の女性は(たとえ東京でも)このような喋り方はしない、と思う。自然な女性語は男性の小説家、文芸翻訳家にとっては重要な課題のひとつとなるはずだ。だいたい女性語の過剰な使用で失敗することが多いように思われる。

非日本人の日本語学習者にとってはこれほど読むのが難しい作品もないだろう。会話だけでなく、地の文でも品詞が削ぎ落とされている。サイデンステッカーはよく訳せたものだ。と思っていたら本人がその苦労を解説で書いていた。(0:37 00/04/27)


ホラーとミステリー。ホラーは説明がつかない謎であり、ミステリーは説明がつく謎である。"X-Files"は両方の良さを持っている。一連の事件はスカリーからすればミステリー、モルダーからすればホラーである。一見完全に謎が解けたように見えて実は解けてないところがなんともいえずよい。全部解明されてしまっては面白くない。宇宙人や政府の陰謀などは、現代に生きづく伝説、都市伝説である。まったく荒唐無稽ではなく「もしかすると本当かも」という可能性が残るところが面白い。小松左京の作品など嫌いではないが、最後の最後できっちり説明しきってしまうのはつまらない。「きいたこともないほど恐ろしい」話である「牛の首」はまだ気が利いていると思う。(18:20 00/03/28)


岩波文庫『唐宋伝奇集』(下) pp.192-201. 「空を飛ぶ侠女−聶隠娘 (しょういんじょう)」ある将軍の娘を見かけた尼が気に入って、攫いだし、暗殺者にしたてるという話である。五年後の尼のせりふがよい。こういって娘を親元に返すのだ。「すっかり仕込みました。お引き取りください」(p.193)ってあんた…味噌や醤油じゃあるまいし。なんのために攫ったの?暗殺者を育てるのが趣味なんかい。これは『ニキータ』ではないか。はたまた『あずみ』か『クライング・フリーマン』か。しかも「尼」という発想が凄い。これは絶対に話がひとつ書けるほどのネタだ。…そうそう、題にもあるようにこの娘は空を飛ぶ。(浮遊とかいうケチな段階ではない)今から1100年ほど前に書かれた話である。(0:50 00/03/26)


ジャック・フィニイ『ゲイルズバーグの春を愛す』を読む。長年の課題だった。図書館では書庫にあったせいだろう、93年を最後に誰も借りていない。もったいないことだ。主人公オスカーは街に恋をする。この「人と街との関係」というものが以前からとても気になっていて、ぜひ自分でも何か書いてみたいと考えている。ゲイルズバーグは架空の街と思い込んでいたが、ちゃんと実在するようだ。しかもイリノイ州に!シカゴ大学周辺やオークパークは古い町並みが残っていた。だいたい街の様子も見当はつくが、やはり気になる。シカゴへ行く機会があれば訪れてみたい。…だがなぜか腑に落ちないものがあった。そう、フィニィが愛着を感じているのは私が修士論文で散々悪口を書いたヴィクトリア様式の建築らしい…なあ、ジャック。あれのどこがいいんだ?(21:19 00/03/24)


文学と倫理。『ジャングルの書』の残虐性。ジャングルの掟は当然徹底した弱肉強食である。モウグリは明らかに自分より弱いタバキを苛めている。また自分より弱いものはすべて殺して構わない。これらの事実を踏まえて若い母親が自分の子供に読ませたがるだろうか?ルパンはいくら正義のためとはいえ、泥棒である。文部省はルパンを学校の図書館に置くことをどのように正当化するのか?ホームズのコカイン中毒は児童向け全集でどう削られているのか?


私はモウグリやルパンたちの肩を持つ。もちろん弱いものを苛めたり、人のものを盗むということはこれらの作品のテーマではない。野生の世界が(少なくとも局部的には)弱肉強食であることは事実である。(環境学的、全体的には食物連鎖ピラミッドは実はクラインの壷だが)事実から目を覆うだけでいいのか?食肉加工の現場を見たことがない人は多い。(よく通る道にたまたまあったので私は子供のときからしょっちゅう見ていた−好むと好まざるとに関わらず。)またルパンのような泥棒は現実にはいないことを皆知っているからルパンを応援するのだろう。人を殺さずに悪者を狙うのだから誰も文句は言わない。


「同時に」すべての面から倫理的な文学は不可能だ。ある一面を鮮やかに描きだすためには倫理的に不適切な個所も必要となる。光のあるところ影があるように。その影だけを見てその作品が「倫理ではない」とは言えまい。

とはいえ、文学的に殺された人間はうんざりするほど多い。テレビで今日も殺される人間の数は何千、何万に上るだろう。人が編む「物語」の中で滅亡のテーマは繰り返される。(13:00 00/03/19)


聊斎志異に「侠女」という一編がある。(以下ネタばれ)貧しい男の向かいに同じように生活が苦しそうな老婆と若く美しい娘が越してくる。男が娘に親切にしてやっても礼をするでもない。付け入る隙を見せないのである。三年の間、男は二度しか彼女と親しくなる機会を得ることがなかった。彼女は男の子を生む。その一週間後、彼女は敵を討ち取ったことを明してその首を見せる。男が貧しくて嫁がもらえないのを憐れんで子供をもうけてやった、というのだ。娘は武術の達人でその上命数が読めるらしい。男があと三年ほどの命であることを予言し、子供を残して娘は男の前から姿を消す。このハードボイルドさ!自由闊達さ!私には私の人生があるというこの強さ!この後、彼女はいったいどうしたのか?自分の人生を探しにいったのだろうか?中国の女性は逞しいというステレオタイプがあるが、それにしてもこの一編は鮮やかだ。(22:09 00/03/16)


岩波文庫版『聊斎志異』を読む。この中国の物語集は太宰治、手塚治虫他多くの人に影響を与えつづけてきた。主人公たちの世間に認められたいという気持ちはよく分かる。芸術を愛する幽霊、狐、神、異形のものたちとの愛情、友情、交流。住む世界の違い、出会いと別れ。彼らには限りない親しみを感じる。(17:38 00/03/16)


キプリングは公然とイギリスの帝国主義を支持した。ドイルはボーア戦争を正当化してナイトに叙され、ダンセイニはその戦争で戦った。私は帝国主義を理性的にも感情的にも否定する。感情的な面は説明できないが、理性的理由のひとつは、帝国主義は文化の多様性を侵害するからである。彼らを帝国主義に組した点で批判するのはたやすいが、彼らの文学を単に無視すればそれで済むのだろうか。帝国主義的行動は多かれ少なかれ普遍的な心性であり、心理学的に考えてみる意義がある。彼らの文学的業績はともかく、これらの事実も忘れずに考えてみたい。そして日本にとってのポスト・コロニアリズムとは何かを。知りませんでした、で済ましたくはない。 (21:20 00/03/09)


山東京伝は実に面白い。黄表紙は江戸のマンガだ。「迷子の法性寺入道前関白太政大臣(ほうしやうじにうどうさきのくわんぱくだいじやうだいじん)ヤアイ。アヽ息が切れる。」『小倉山時雨珍説』(00/1/30)


小林多喜二『党生活者』を読む。小説を読んでひさびさに考えさせられ、いろいろな意味で感動した。このような生活は自分勝手な私にはとてもやっていられないが。全体のための個人の犠牲というのは不思議に右翼左翼に共通している。(00/1/16)


最近読むもの。『半七捕物帳』『右門捕物帖』。パスタを茹でながらIBMから貰ったWorkPad c3で読む。(00/1/12) 


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