日常生活の美学

−モダニズムと「いき」−

 

原題:An Aesthetics of Everyday Life

- Modernism and a Japanese Popular Aesthetic Ideal, Iki  -

 

山本有二

 

書式付版版番号 0.67 (2012年9月13日改訂)

電子版注

著作権に関する注、電子版技術的注を文書末に付す。本文書の最新版は http://cosmoshouse.com/works/papers/papers-j.htm にて入手できる。

本文(和文)は、修士号取得の要件の一部として1999年5月14日にシカゴ大学人文学部(ジェイムス・ケトラー、W. J. トマス・ミッチェル両教授)へ提出された修士論文(英文)に加筆したものの日本語版である。原文は英語圏読者を想定して執筆されたため、日本語版執筆にあたって日本の読者には不要の解説は省いた。英文、仏文からの引用文は、別記されていなければ山本による翻訳である。なお本論文の原文では「いき」はikiと表記されている。「いき」の日本語での表記の方法は十数種以上が記録されているが、粋(いき)と表記されるのが現在最も一般的である。だが、粋(すい)と区別するため、この日本語要約では基本的に「いき」と表記する。また九鬼周造全集は本文に旧字体を含んでいる個所があるが、引用文は適宜新字体に改めた。

0. 序文

浮世絵を始めとする十九世紀の日本の大衆文化は近代西洋における芸術運動―アーツ・アンド・クラフツ、アール・ヌーヴォー、印象主義、フォーヴィスムなど―に大きな影響を与えた。日本の建築が西洋における浮世絵の最初期のコレクターでもあったアメリカ近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライト(1869-1959)に与えた影響も見逃せない。これらの影響は日本文化を西洋的価値観―芸術においては美的理念―において解釈されたものである。しかしこれらの解釈は「西洋が非西洋を解釈する」という一方通行になりがちであった。その逆、つまり非西洋的理念を西洋の事物に適用する試みは積極的に行われなかった。そうすることが無益であったからだろうか。あるいはそれは不可能と考えられたのだろうか。「東洋は東洋、西洋は西洋、二つが(まみ)えることは決してないであろう」というキプリングの一節に首肯する者は今日稀であろう。だが、ヴァナキュラー(vernacular)な理解を通して文化が説明されることなしには、この一節もまた真となる可能性がある。

日本の美的理念「いき」は、日本文化のモダニズムの流れ全体への貢献の性質を明らかにする上で、ヴァナキュラーな美的理念の好例といえる。十八世紀後半から近代前夜にかけて当時世界最大の百三十万の都市人口を有していた江戸において、幅広く民衆に支持されていたという点で「いき」は日本の数多くの美的理念の中でも特殊な位置を有する。その含意するところは今日まったく同じではないにせよ、「いき」は日本の近代化を生き延び、今日日常生活において浸透している。

ヴァナキュラーな美的理念を西洋の芸術作品に適用することは有益であるのみならず、非西洋的理念がこれらの作品にどのように影響したかということをより深く理解する上でも必要である。そのような美的理念はときに「作品」(work of art)という西洋の芸術において当然の前提とされている概念すら揺るがすことがある。「いき」がどのように西洋の作品に見出しうるかの一例として、ライトの代表作の一つであるロビー邸をとりあげる。

1. 歴史的文脈における「いき」

「いき」は十八世紀後期の江戸の町民―都市生活者に由来する。同時期に流通した美的理念「通」はより知的な性格を持つことは諏訪らによって指摘[1]されている。「いき」は町民にとっては広い関心を持たれていたが、江戸期においては学術的主題として取り上げられることはなかった。この点は西洋においては美的理念のほぼすべてが徹底した学術的吟味を経ていた「学術的主題」として扱われていたことと比較して注目に値する。「いき」は、九鬼周造の『「いき」の構造』(1930)によって初めて本格的に学問的に取り上げられた。

今日、「いき」は「江戸っ子」や東京の人に限られたものではなく、日本人全体に受け入れられている。西山は「『いき』」の美意識は、日本人共有のものである」[2]述べている。日本の美学はあはれ、をかし、わび、さび、余情、幽玄など多くの美的理念を生み出した。だがこれらの理念は歴史的色彩が濃く、現代の日常生活に常に親しいとは言いがたい。それに対し、「いき」は今日の日本語でさかんに用いられる標準的な語彙のひとつと言える。遠藤由紀子と本間道子は「いき」という語に関する調査(1963)において「いきはその原義からかなりのずれを伴ないながらも現代においてまだ死語とはなっていないし、一部の人々のあいだにはかなり積極的な価値を付与されて用いられてもいる」[3]と結論づけている。「いき」は前近代から近代を通して、また江戸から今日にかけて人々に受け継がれていると言えよう。「いき」は俗悪と超越的という両極端を避けたため、日本の美的理念の中で現代でも生き残ることができたのである。

2. 『「いき」の構造』再検討

2.1. 『「いき」の構造』批判

それまでの歴史の中で直接学問的対象とならず、いわば閉ざされた概念であった「いき」を、九鬼は『「いき」の構造』においてひとつの美的理念として、近代的な思想の中で理論的に位置付けようとした。「いき」に関する後世の多くの著作はこの文章に深く負っている。九鬼の「いき」の研究は極めて重要なものであるが、「いき」に対する決定的な説明とはいえない。そして『「いき」の構造』は、異文化間の美意識の流通、普遍性と特殊性という観点から、主に以下の三点からの批判を免れない。第一は、西洋の、特にハイデッガーの論理と方法論、また西洋の芸術作品の例を用いながらも、なお西洋が「いき」を理解することを懐疑するという矛盾である。「いき」は九鬼が主張するように排他的で固定された理念ではなく、相対的で柔軟である。九鬼自身、「いき」が特定の対象に固定された価値ではないことを、より「いき」である縦縞よりも状況により横縞が「いき」となりうることを図らずも示している。[4]「いき」の用法と意味するところは実際多様であり、不安定である。第二に、九鬼は「いき」に対して過剰なまでに哲学的操作(philosophization)を加え、町人、特に「江戸っ子」の役割を軽視し、むしろ武士道を「いき」の精神的基盤と捉える曲解を行った。レスリー・ピンカスは「『「いき」の構造』においては、大衆文化の諸様式と徳川期社会の物質的変遷との繋がりは事実上消え失せている」[5]と指摘した。九鬼は「いき」の重要な面のいくつかを明らかにしたが、大衆の日常生活に根ざした美的理念としては哲学的操作が行き過ぎた。第一、第二の点に関連して、第三の点として、九鬼は「いき」を美学全体の中で位置付ける上においての「日常性」を看過した。第一、第二の点に関しては続く項で、また第三の点については後の章でより深く触れる。

2.2. 江戸町人の美学

九鬼の哲学的観察とは矛盾するが、「いき」は気まぐれで即興的であり、知的分析を拒否し、ときには表面的で俗悪な面も有していた。安田[6]はその他の日本の美的理念わび、さびを「聖なる美意識」、「いき」を「俗なる美意識」と対比させている。(竹内、諏訪、中尾、西山らの引用。洒落本『大通法語』(1779))喜田川守貞が著した江戸時代の百科事典的風俗誌である『守貞漫稿』(1853)には「俗間ノ流行ニ走ル者ヲ京坂ニ粋ト云。江戸ニテ是ヲ意気ト云」[7]という記述があり、「いき」の表面性を示している。また斎藤隆三、赤堀又次郎、宮武外骨らは江戸っ子らは自らの貧しさと無学をそのまま受け入れるのではなく、むしろ彼らが金銭に関する気前よさを誇り、反知識人的態度を標榜して、武士の権威に挑戦していたことを指摘している。[8]中尾は「いき」の支持者である江戸っ子について「…袢天着、すなわち、職人階級や準職人階級に属する者たちは、腕に誇りを持っているため、読み書きの力や教養などを身につけることはしなかった。むしろ空意地でその必要を認めなかった。」[9]と述べている。(川柳における例。)「いき」は江戸文学で頻繁に登場する。山東京伝の黄表紙『江戸生艶気樺焼』(1785))二葉亭四迷は言文一致体を生み出すにあたって、以下のように述べている。

「…僅に參考にしたものは、式亭三馬の作中にある所謂深川言葉といふ奴だ。「べらぼうめ、南瓜畑に落っこちた凧ぢゃあるめえし、乙うひっからんだことを云ひなさんな」とか、「井戸の釣瓶ぢゃあるめえし、上げたり下げたりして貰ふめえぜえ」とか、「紙幟の鍾馗といふもめッけへした中揚げ底で折りがわりい」とか、乃至は「腹は北山しぐれ」の、「何で有馬の人形筆」のといった類で、いかにも下品であるが、併しポエチカルだ。俗語の精神は茲に存するのだと信じたので、これだけは多少便りにした…」[10]

多田[11]、南[12]、ピンカス[13]らはいずれも『「いき」の構造』が武士道に「いき」の起源を求める点についての批判を行った。また南は武士以外の権威としての、深川芸者が客を選ぶ「さし」の権利を指摘した[14]。野暮な武士、浅黄裏(浅葱裏)、武左、新五左は江戸っ子に侮蔑されたが決して「いき」とは呼ばれなかった。永井荷風は浮世絵を被支配階級による「いき」の表出の例として、次のように述べている。「浮世絵は隠然として政府の迫害に屈服せざりし平民の意気を示し其の凱歌を奏するものならずや。」[15]この一文は「いき」が武士ではなく、町人のものであることを示している。

2.3. 「いき」の西洋における理解は不可能か

九鬼の対象は日本的現象であったにも関わらず、『「いき」の構造』における手法は西洋、特にハイデッガーの解釈学であった。興味深いことにこの著作の草稿は、主題が日本の美的理念であるにも関わらず、パリで書かれた。レスリー・ピンカスはカントの「判断力批判」(いわゆる第三批判)からの影響[16]を指摘している。少なくともカントにとって美学的判断は普遍的でなければならなかった。九鬼は自らの議論を擁護するために、日本の例の他に多くの西洋の思想家と詩人(ゼノン、ロスリン、ビラン、ニーチェ、ヴァレリー、ベルクソン)またエル・グレコ、ロダン、そしてショパンなどの芸術家を挙げている。その一方で、彼はこの書を日本語で書いている。フランス語、ドイツ語でも文章を残している九鬼がとりわけ日本語で書いたことにはある理由が想像される。西洋の概念を用いて日本の概念を説明すること自体が問題なのではない。だが九鬼の西洋における理解を悲観的とする見方は、彼自身の西洋の概念への依存と明確に矛盾する。九鬼のこの非一貫性の裏には日本の近代化/西洋化への皮肉なジレンマがある。それは九鬼と近代の日本の知識人によって共有された西洋への両価感情(アンビヴァレンス)である。ピンカスは『「いき」の構造』が抱えたジレンマを次のように要約する。

皮肉にも『「いき」の構造』という理論的成語は、日本の文化的正当性が固有の過去に根を持つことを示そうとする目的のためにつくり上げられ、同時に当時の日本を前近代から不可逆的に分離する異質な現代という幕間の証人となった。[17]

ヨーロッパで長期間生活する日本人が、その町並みや、成熟した人心、学問的伝統に触れて感動する一方で、あからさまな差別的待遇を受けることもまたないとはいえない。九鬼は自作の詩集「巴里心景」の中で「黄色い顔」と題する一編を残している。

「…
かう申しては失礼ながら
支那人と日本人
慢性の黄疸病とやらに罹つて……
と、かう私共欧州人は
実のところ考へてゐるのです。
…」[18]

この「白色の俗人」の言葉に、「黄色の実証論者」、「黄色の形而上学者」、「白色の批評哲学者」がそれぞれ、あくまで「黄色い顔」が差別的であるという点に触れずに自分の考えを冷静に述べる皮肉な詩である。おそらく九鬼は心無い差別的な言葉を投げかけられ、腹にすねかえてこの詩を作ったのであろう。永井荷風もまたアメリカで四年、フランスに一年滞在して帰国後に江戸趣味への傾斜をいっそう深めた。九鬼の日本への回帰は、欧米への憧憬と共にこのような被差別感情がひとつの要因となっていると考えられる。

2.3.1. 西洋へのアンビヴァレンス−他者としての西洋

九鬼の西洋に対する非一貫的な立場を理解するには、まず西洋がどのように日本人に受け止められてきたかに触れる必要がある。西洋(the West)という一般的な語は、その漠然さゆえに西洋の人々にとっては違和感を持たれる語であろう。この語は日本人にとってはまた単なる地理的名称以上のある特有のイメージを伴っている。それはエドワード・サイードが西洋的文脈の中で「オリエント」がいかに捉えられ(誤解され)てきたかを示したように、東洋人が「東洋」という言葉に違和感を覚えるのと同様である。オスカー・ワイルドは西洋人の日本に対する幻想に対して警告を発した。日本にとっては西洋は文化的な他者であり、西洋化/近代化は日本人の自己同一性を脅かした。(自己同一性の観念そのものが西洋化の産物でもあるが)(西洋化と近代化の比較。)ピンカスは九鬼の「いき」に対する哲学的操作を「近代化の要請」に対する「美学的防衛」であると呼んだ。[19]

ハイデッガーは日本人との対話[20]の中で「あなたは私が九鬼伯爵としばしば議論した異論の多い疑問について触れていますね。つまり東アジアの人々にとって、ヨーロッパの概念体系を追いまわすのが必要且つ正当なことであるかという疑問です。」[21]と警告する。日本文化の特殊性はしばしば日本論、または日本人論において誇張されており、『「いき」の構造』もその中に数えられる。しかし「日本人特殊論」を攻撃する場合は、文化的帝国主義に陥る危険性を知らなければなるまい。日本の思想を西洋の思想と連関させることは、日本の知識人にとって、十九世紀末に西洋の思想に出会ったときから今日に至るまで重要な問題であった。ハイデッガーの対話における「ある日本人」手塚はハイデッガーの問いに対し、日本語は「決定的な秩序の中で上下に相互関連する対象を示すための境界を定める力を欠く」[22]と応えている。

2.3.2. 「いき」の相対性

九鬼は近代化/西洋化される日本を嘆いていた。自らの文化を失う不安に対しては同情するが、「いき」の研究は日本美学のみならず、比較美学の観点からも有用である。九鬼は「厳密なる意味」[23]を「いき」に求めようとするが「いき」は相対的且つ柔軟な価値であり、絶対的で排他的ではない。竹内は江戸の文学と俗謡に表れる「いき」の表記を十四例(粋、意気、趣向、当世、好風、好意、好漢、好雅、風雅、大通、通人、程、秀美、花美)[24]挙げているがそのひとつひとつが微妙に異なったニュアンスを持っている。九鬼自身もまた「いき」に対して四種の異なる表記(生、息、行、意気)を挙げている。[25]九鬼自身がしたように「いき」がひらがなで表記された場合は特に、その正確な意味はより決定しがたい。また「いき」の表出は縦縞と横縞の例に見られるように、状況と文脈に深く依存する。

3. 日常美学としての「いき」の再文脈化

3.1. 日常生活に根ざすオルターナティヴな美学としての「いき」

自らの西洋的手法にも関わらず、九鬼は西洋における「いき」を認めていないため、彼の文章は西洋の読者を前提としていない。九鬼は「いき」を日本的なるものとして正当化するため、「いき」における日常性を軽視したと考えられる。九鬼が逸した点は、「いき」は第一義的には芸術的経験より日常的経験における美的理念であるという点である。多田は「いき」を「俗なる美意識」[26]と呼んだ。日常性のみが「いき」の包括的な条件ではない。だが、「いき」における日常性は、芸術と芸術作品に根ざした西洋美学と比較し、その位置を明らかにするために注視することが必要である。日常性を反映させ、西洋の理念との比較のために二つの軸を「いき」についての議論に付け加えたい。それは単純性と黙示性である。

3.2. 形態的「いき」と状況的「いき」

「いき」の単純性と黙示性について触れる前に、二つの観点を導入するのが有用と考えられる。それは「いき」を形態的(formal)「いき」と状況的(situational)「いき」に分類することである。九鬼は「いき」に関して、人の性格のような「意識現象」と外見、行為、服装などの「客観的表現[27]」を区別した。九鬼にとって「いき」は、「民族的具体の形で体験される意味」であり、彼はまず「いき」は意識現象として、その次に客観表現として[28]理解されるべきであるとした。ここでも彼は論理的なつまずきを見せている。もし日本人読者が「いき」とは何物であるか理解しているとすれば、「いき」について説明を加える行為の意味がなくなる。言い換えると、説明が日本人にとって意味があるものであれば、非日本人にとっても何がしかの意味があるはずである。「いき」の説明可能性を示すために、九鬼とは異なる「いき」の分類を提起したい。それは形態的と状況的「いき」である。形態的「いき」は物の形態、形相において表出する「いき」である。それに対し、状況的「いき」とは特定の物ではなく、その場の状況全体について表出する「いき」である。状況的「いき」には行為、察知、ある人物の生き方、ある場所の雰囲気、自然現象などが含まれる。形態的「いき」と状況的「いき」は相互に連関しており、排他的ではない。だが「いき」を興味深い理念としているものは「いき」が状況的たりうる点である。その点において、「いき」は「状況の美学」ともいえるであろう。それに対し西洋の古典的美術作品は状況に依存しない。(いわゆる)『モナ・リザ』はルーブル美術館にあっても、個人の邸宅にあったとしてもそれが真正の作品である限り、そして西洋的美学の立場に立つ限り、何ら作品の美的価値に変化はない。

現代の日本語において「いき」は形態的な意味よりも、状況的な意味において適用されることが多い。例えば、九鬼が指摘するようには「いき」な色(鼠色、茶、青[29])に関してそれほど明確な合意があるとは考えられない。だが「いき」は現代において、例えばある行動の質、要素の組み合わせ、そして色自身よりは色の用い方などについて言及される。九鬼が行っているような形態的「いき」の分析には「いき」の持つ柔軟性を単に色やデザインの好みに還元してしまう危険性がある。「いき」とは相対的で文脈に依存するものであり、状況的「いき」はより柔軟な解釈を可能にする。

3.3. 「いき」における単純性

単純性(simplicity)はわび、さびなどの日本の美的理念にも共有されているが、「いき」の非日本的美的理念との比較において重要な役割を持つ。「いき」の単純性は視覚的レベルにおける幾何学的単純性、そしてより抽象的な構造的単純性がある。前者は形態的「いき」、そして後者は状況的「いき」に対応する。

九鬼が『「いき」の構造』において「いき」の芸術的表出について触れるとき、次の点に留意すべきである。それは九鬼の結論とは矛盾するが、「いき」の表出は日本に固有の現象ではなく、日本以外においても流通可能だということである。「いき」の概念が普遍的に見られないことは、「いき」が日本の外で理解されないということにはならない。(九鬼の縞に対して卍や放射状の模様が「いき」でないという主張。)皮肉にも建築家ルドヴィッヒ・ミース・ファン・デア・ローエのモットー、"less is more"は図らずも西洋芸術における絶えざる装飾的衝動、あるいは単純性に対する遺伝的嫌悪を明らかにしている。それというのもこのモットーは一般的には"more is better"であることを踏まえ、彼自身としては"less is better"であることを主張しているのであるから。このことは単純性が西洋で美学的問題とならなかったということを意味しないが、ウィリアム・モリス、ウォルト・ホィットマン、ヘンリー・デイヴィッド・ソローなどの単純性の礼賛、そしてモダニズムが到来するまでは、単純性は民衆に広い支持をうることはなかった。モダニズムこそが単純性の美を日常生活にもたらしたのである。これに対し、日本語においては「あっさり」「さっぱり」「すっきり」「素朴」といった語が従来からあり、「きれい」という語が余分なものがないことと同時に美しいことを指すのである。

九鬼はジャン・アントワーヌ・ワトー、コンスタンタン・ギース、エドガー・ドガなど具象画家のみを挙げて彼と同時代の抽象画家を挙げないのは奇妙である。[30]九鬼は単純性の追及に関しては近代の抽象画家と驚くほど明確な類似を見せている。原色の使用は九鬼の言う「いき」な色(鼠色、茶、青)とは必ずしも一致しないが、抽象絵画の幾何学的な単純性、特にモンドリアンの構成においては「いき」の要素が認められる。(デュシャンの「反芸術」としてのレディ・メイド、また「見出されたオブジェ(オブジェ・トゥルヴェ)」と、「非芸術」としての状況的「いき」の類似。デュシャン、L.H.O.O.Q.における状況的「いき」。以下略)「いき」においてシンプルであること、あるいは日常生活における単純性への志向はそれ自体、美的快感を生む美的経験を形作る。「洗練された素朴さ」という撞着語(オクシモロン)は「いき」の単純性をよく言いあらわしている。

3.4. 「いき」の黙示性−反例としての美術館

「いき」は明示性、雄弁、冗長性を避ける。黙示性(implicitness)は、単純性とともに「いき」の理解に加えるべきもうひとつの軸である。美の概念は「私は美しい」といった自己主張的宣言のナルシシズムを許容する。ナルシシスト的な宣言自体はその発言者の美の質には影響しない。(つまり美しい人が「私は美しい」ということは美しくない人がそのような宣言をすること同様、十分にありうる)だが「いき」の場合、「私は『いき』だ」と言うことはありえない。なぜならば「いき」は自己主張的、明示的であってはならず、さりげなく(inconspicuous)、黙示的でなければならないからである。このようなさりげなさ、黙示性により「いき」は「背中の美学」であるとも言える。面と向かい合うことは「いき」ではなく、「いき」の表出には見出されない。西山は菱川師宣の(いわゆる)「見返り美人」[31]を「いき」の表出の例としてあげている。この浮世絵の女性像を西洋の古典的な肖像、例えば見るものをまっすぐに見返してくる(いわゆる)「モナ・リザ」と比較すれば違いは明らかである。アメリカ人画家ジェイムズ・モンゴメリ・フラッグによるよく知られた徴兵用宣伝ポスター、アンクル・サムが見るものに指をつきつけるI Want You (1917)に類似した浮世絵を見つけることは不可能に近い。これは浮世絵が宣伝的ではないということではなく、見るものを見つめ返すということが「いき」ではないからである。どの浮世絵においても、姿勢のみならず、感情においても見るものを見つめ返す姿勢がとられることはない。和服の帯の装飾的な鑑賞の中心は背中の結びであり、腹側ではない点も注目に値する。抜き衣紋におけるうなじが「いき」であることは、背中を見せることが身体的な「いき」の表出において重要であることを確認する。

身体的「いき」の表出に関して、二人の人物、特に現実や映画などにおける一組の男女の相対的な位置として、最も「いき」な位置を決定することが可能であろう。それはおそらく背中合わせである。多田は、向かい合う抱擁に対して、背中合わせが九鬼の言う、男女間の二元論の保持された緊張の源であると指摘している。安田は九鬼がブードゥール(boudeur、あるいはその女性形ブードゥーズ(boudeuse)。「不機嫌な人」の意)と呼ばれる、反対方向を見つつ腰掛ける、上から見てS字型の「いき」な椅子が十九世紀中ごろのパリにおいて見られたことを指摘し、九鬼がそれを見た可能性を示唆した。[32]

制度としての美術館の不在は、日本の前近代において「いき」の黙示性が日常生活で実践されていたことの興味深い例の一つである。日本における最初の近代西洋美術館、大原美術館は1930年になってようやく建てられた。(この年は『「いき」の構造』の出版の年と符合する。)ケヴィン・ニュートは建築家ライトと日本の関係を詳細に論じたが、彼は浮世絵が「第一義的には大衆娯楽の一形式であって、美術(bijutsu or fine art)ではなかった」としている。[33]実質的な最初の浮世絵の展示会はアメリカにおいてであり、日本ではなかった。そしてそれはアメリカ人、アーネスト・フェノロサの主導によるものだった。美術館は展示物を収集し、訪問者に注視させることを目的とするが、「いき」は注視を避け、知的分析を軽蔑する。美術館における芸術と日常生活の乖離が美術館を野暮な場所にする。美術館における展示品は日常生活文脈から切り離される。この点において茶会と床の間は、芸術と日常生活が分離せず一体の関係にあるという点で、広義の「いき」に当てはまる。

3.5. 非芸術としての「いき」

3.5.1. 茶会

茶会は西洋の芸術における展示会とある種の共通点を持っているようだが、異なった性質を持つ。茶器は名匠の手になるものであれば「芸術作品」と受け取れないこともない。そしてそれを讃する客は展示会における鑑賞者の立場とある点では共通している。だが茶器は日常の生活に由来するものであり、茶会においては、茶を飲むというより本質的な行為に付随するもので、その文脈から独立した展示物ではない。数奇屋の建築、庭、茶器、そして全体的「状況」とそれがおかれた時間の流れが日常生活の文脈の中で美的経験を形作るのである。そこに非日常があるとすれば、日常と乖離した非日常ではなく、あくまで日常に基づいた非日常である。

3.5.2. 床の間

床の間は日常生活と芸術が一体となっているもうひとつの好例である。床の間は日本人にとっては多くは完全に日常に埋没して省みられることが少ない。(従って日本人にとっては床の間がとりたてて「いき」であることはむしろ少ない。)この点では九鬼の指摘するように床の間と畳(あるいは部屋の空間)がある程度の二元的対立を保持することが要求されよう。[34]だが床の間はむしろ西洋的視点から再検討することで新鮮な意義を見出すことができる。床の間という空間と部屋全体は、西洋的視点からはすでに明確な対立を示しているからである。ここでは対立のみが強調されるべきではなく、対立しつついかに調和しているかが問題となる。つまりここでの対立は調和を前提とした対立である。床の間に突飛なものが置いてあれば、それは珍奇ではあっても「いき」ではない。(だが建築の一部であるという性質上、ともすれば日常に埋もれそうになる床の間では、むしろ意表をつくものの方が「いき」となりうる可能性もある。)谷崎潤一郎は『陰影礼賛』において掛け軸の名作も床の間にそぐわなければその価値を失うが、つまらない作品でも部屋の雰囲気に合致するものは思いがけない美しさを生むと述べている。[35]このことは前述したように、『モナ・リザ』など西洋の芸術作品の美的価値が状況に依存しないことと対照をなしている。

3.5.3. 反復と儀礼

茶会のような儀礼(ceremony)はもちろんだが、「日常生活」というものは多かれ少なかれ儀式的(ritual)な面を持っている。ある状況を合理化しようとするのは人間の心理的な傾向だが、今われわれに起きつつあることを理性的に理解することにすべての努力を費やすわけではない。われわれはある点で判断を中止し、それ以上の状況の合理化、意味付けを放棄する。従ってわれわれは儀式のように必ずしも合理的に納得のいく理由がない行為もしばしば行う。

芸術とは「新しい価値の創造」である、と仮にしておく。この仮の定義に従えば、儀式は新しい価値を創造するわけではないので、それ自体無価値であるわけではないが、少なくとも芸術とはいえない。(ゴールデン・ドーンやその他の儀礼的魔術を創作し実践する宗教団体などはまた別である。)西洋的文脈において"repetition" (反復)やその派生である "repetitious"(反復的)、またそれに相当する語はほぼ間違いなく否定的な意味を持っている。儀式とは基本的に反復であり、「近代化」の過程では、抹殺されるべき対象であった。だが儀式の意味とはその参加者の態度により決定される。近代社会における結婚は広く行われている儀式であるが、それはその当事者のカップルにとっては(基本的に)一生に一度の出来事であるが、一部の参加者にとっては同じことの繰り返しであり、退屈である。

日本の美学では、儀式に意味を付与するために反復はまったく問題ではない。九鬼は湯上がり姿[36]を「いき」の「自然的表現」の例としてあげた。彼は「裸体を回想として近接の過去にもち、あっさりした浴衣を無造作に着ているところに、媚態とその形相因とが表現を完うしている。」と主張する。湯上がり姿は(西洋においては)芸術的な事物や状況ではなく、日常生活におけるさりげない出来事でしかない。

その他の「いき」の「自然的表現」の例として、九鬼はくだけた会話の中での言い回し、ある種の姿勢、浴衣姿、「姿がほっそりしていること」、「細おもて」、薄化粧、略式の髪型、素足などを上げている。[37]これらの例はいかにさりげない日常の現象に「いき」が現れるかを示している。これに対し、芸術作品は「いき」であることもあるが、それらが人為的(artful)であるため一般には「いき」になりにくい。上記のような日常の事象に目を向けることが日本人の美的欲求を満足させてきたのである。日本人は「創造性を欠く」とはステレオタイプとしてよく言われるが、これは必ずしも非難とはいえないかもしれない。神経症的行為としての強迫的反復とは、ある行為の無意味であることを自覚してなおかつその行為を中止することができない行為である。だが、当人にとって意味を持つ儀式は、強迫的反復とは明らかに異なる。日本人が儀式を繰り返すのは反復に価値を見出しているからである。

日本人の娼婦、ギリシア人の哲学者、フランス人画家にとって「日常」とはそれぞれ異なるものであろう。だが彼らのすべての日常生活にある程度共通する属性を抽出することは可能である。そのような日常生活に共通する属性とは、「ありふれた」「停滞した」「自己満足の」「儀式的」といったものであろう。これらの属性は西洋美学の中では積極的な役割を持っていない。もし芸術が新しい価値を創造するための妥協なき挑戦であるならば、日常生活とは自己満足に浸ることであり、西洋において芸術と日常生活は対極のものであるといえる。これに対し、このような日常性は日本美学において決定的に重要な役割を持っており、とくに「いき」においては美的体験が個別の芸術作品の重要性を凌ぐという点で重要である。

ロシア構成主義の文芸批評家シュクロフスキーは異化作用が芸術にとって重要であると主張した。

芸術は生活における感覚を回復するために存在する。芸術は人が物を感じ取れるようにするために、石を「石らしく」感じ取れるようにする。芸術の目的は物がどのように知られているかではなく、どのように感じ取れるかという意味での物の感覚を伝えることである。芸術の技術は物を「見慣れない」ものにすることであり、形態の知覚を困難にし、より長く時間をかけさせることである。知覚の過程は美的な終末であるから、延長されなければならない。芸術とは物の芸術性(artfulness)を経験する方法である。物自体は重要ではない。[38]

ある意味ではこの構成主義的な芸術の定義は「いき」の作用の説明にも適用可能である。「物自体は重要でない」とすれば焦点は芸術作品から経験へと移る。シュクロフスキーの "artfulness"を美的性質と捉えれば、この原則は「いき」の働きが日常生活の規範に関してどのように作用するか表現できる。構成主義的手法と「いき」との違いは、構成主義者は最終的には生活から離れて芸術を志向するのだが(芸術の本質が作品であれ経験であれ)、「いき」は逆に芸術を日常生活に内包するのである。

3.5.4. 日常性の揺さぶりとしての「いき」

日常性の完全な説明を与えることは不可能であろう。というのも日常性の特性とはそもそも「特徴をもたない」ことであるからである。「いき」はこのような日常性を揺り動かすことである、と表現できる。日常性はそれ自体必ずしも自己充足や停滞であるとは限らず、「いき」により刺激されることで定常性動的平衡を保つ。多田は花柳界、魚市場での「物の流れ、人の流れ、情報の流れ」[39]に着目した。「いき」の表出は、西洋の芸術が創造性の名の元でそうするように、日常性を深刻に脅かすものではなく、また日常性に埋没するものでもない。いきの表出は日常と非日常の境に存在する。それは日常性に反抗するが、日常性を攻撃的に破壊するものではない。

日常性の定常性動的平衡が十分に安定しているときに、「いき」の表出が時折日常を揺り動かすことで、日常性の表面に浮かび上がる微妙な変化に対する感受性が研ぎ澄まされ、美的快楽を生じるのである。

九鬼が自発的「いき」の表現としてあげている例は、深川芸者における浴衣、湯上がり姿、素足、薄化粧などである。また他に小雨や柳の枝など−これらは日常生活の中の状況であるが研ぎ澄まされた感受性はこの微妙さを愉しむ。

異化の原則も、規準と「何か違う」ものがある、という点ではここに当てはまる。だが、「いき」の表出は非可逆的な変化をもたらすほど集積しない。「いき」の表出は常に日常性の流れに還る。微妙な変化に対しても鑑賞者は繰り返し快楽を得るのであるが、西洋の芸術は絶え間なく新しく、より強力な刺激を求める。

4. 近代と西洋における「いき」の例

4.1. 西洋に「いき」は存在し得ないか

九鬼は次のように主張する。『「いき」に該当する語が西洋にないという事実は、西洋文化にあつては「いき」という意識現象が一定の意味として民族的存在のうちに場所を持っていない証拠である。』[40]この主張にはどの文化も変化するものであり、ある外国語の語がある文化の言語に取り入れられる可能性を無視している。南博と多田道太郎、またその他多くの「いき」の論者はその歴史的に限定された時空、江戸を越えて近代の、あるいは非日本において「いき」が理解され、またその文化的事象に適用され得ることを指摘している。後述するように九鬼自身が自作の詩のなかで「いき」を西洋の文化的事象に適用しているのである。また九鬼は「日本の演劇」と題されフランス語で書かれた小文の注に下記のように書いている。「何年か前、シャンゼリゼにあるパリ風(parisien)のミュージック・ホールのひとつで華道の技術が適用されているのを見て、非常に嬉しく思った。」[41] Parisienは「パリの」、あるいは「パリ風の」の意であるが、シャンゼリゼといえばパリと決まっているにも関わらず、わざわざそう断っているのは日本風のミュージック・ホールでなく、パリ的な場所で華道を見かけたために、九鬼は非常に嬉しかったのである。この述懐からは九鬼自身、「いき」が西洋にとって理解し得ないものではなく、むしろ文化を越えて適用されることを望んでいたことが伺われる。

さらに九鬼はフランス語で「いき」に関する文章を執筆する予定を持っていた。主題のみが残されて実際に執筆されることはなかった。[42]実際に執筆されなかったものを云々することはできないがその内容がどのようなものであれ(『「いき」の構造』では西洋への「いき」の説明を悲観しているにも関わらず)「いき」を何らかの意味でフランス語で説明しようとした試みであることは間違いない。

4.2. 近代と西洋における「いき」

南博は、九鬼が『「いき」の構造』における結論とは逆に、パリ滞在中に自作した詩[43]の中で図らずも西洋において「いき」を見出していることを指摘している。[44]奇妙なことにこの時期、1925年から27年は『「いき」の構造』の草稿が執筆された時期と一致する。以下は九鬼の詩の抜粋である。

「魚料理屋」(パリジェンヌの科白として)

「…
着物は黒地の絹のにしますわ、
銀の壁からすつきり
姿が浮出ていいでしょ、
胸に真白な薔薇の花を一つ、
首飾は真珠、
腕には白金の時計、
指環は白いダイヤ、
帽子は石蓴(あおさ)のやうなみどり色の
まぶかに、いきに被るわネ
口紅を濃くささして頂戴、
乙姫だなんてまたおつしやるの?」[45]

「門番の息子」

(恋人アントアネットの間借りしている家の門番の息子に)

「…

おお、フランソア、フランソア、
今年十四の美少年、
昨夜(ゆうべ)は何の気まぐれか、
あの「ホフマンの物語」の
「美しい夜の恋の夜」と、
歌つて流す船唄を
お前はしきりにハモニカで
隣の部屋で吹いていたな。
粋なつとめを壁ごしに
しろとは誰が教えたか。
…」[46]

「露西亜の唄」

(男に対して、その恋人、巴里女「シュザンヌ」がロシア人の女性をさして)

「…
さうでしょ、
その位には気づいてますわ。
あの阿娜つぽい「いき」な喉で
じやらけた小唄を歌つた女を
あなたの瞳は蕩けきつて
じつと見詰めてましたもの。
…」[47]

九鬼は(『「いき」の構造』における彼自身の結論とは異なるが)「いき」の西洋における理解を完全に否定しているようではなさそうである。

4.2.1. 服飾と髪型

南博は西村真次『江戸深川情緒の研究』を引いて、遊郭における感情面と服装面での男性性と女性性の交換を指摘している。深川芸者は多く米八など男性の名前を用いた。そして羽織など男性の着物を着、男言葉を使った。近代以降の映画においてボーイッシュな若い女性、例えばゴダールの『勝手にしやがれ』におけるジーン・セバーグ、あるいはウォン・カーウァイ『重慶森林』におけるフェイ・ウォンなどは「いき」であるといえないだろうか。彼女たちはほっそりして、自然な化粧、あっさりしたショートカット、そしてそのボーイッシュな装いにはさりげない媚態がある。また抜き衣紋が「いき」であるならばポニーテイルもまた「いき」でなければなるまい。九鬼も言うように、「襟足を見せるところに媚態」[48]があり、「肌への通路をほのかに暗示する」のであるのだから。

4.2.2. 行為に見る「いき」

「いき」は物理的具現のみならず、状況的「いき」として行為において表出する。例えば、自らの愛を諦める者はしばしば「いき」を体現する。なぜならば諦めの中にさりげないエロティシズムがあるからである。深川芸者、米八は人情本『春色梅児誉美』において典型的な「いき」の体現者と見なされている。一方、エドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』においてシラノが恋敵のために恋文を書く行為は「いき」といえないだろうか。あるいは映画『カサブランカ』(1942)においてリックが元恋人と恋敵を見送り、自らはカサブランカに踏みとどまる行為はどうだろうか。このような役回りは主人公のみならず脇役においても見られる。よく知られた例では、リヒャルト・ヴァーグナーのオペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』において、ハンス・ザックスはやはり自らの恋を諦める。このオペラ自体が貴族ではなく民衆に捧げられたものと解されている点にも注目すべきである。

4.3. 近代芸術における「いき」の表出

ロビー邸における「いき」

「いき」の近代/西洋における表出を、ライトの傑作の一つであるシカゴ郊外のフレデリック・C・ロビー邸(1908-1910)に見出すのはそれほど不適当とは言えまい。実際、九鬼による「いき」のモデルと驚くほど多くの要素が一致している。「いき」がライトに及ぼした美術史的影響を論じるのは本論の意図ではない。だがロビー邸は下記の如く西洋の文化事物への「いき」の適用の好例となりうるのである。

九鬼[49]と竹内[50]は浮世絵における「いき」について言及している。浮世絵が近代/西洋美術に与えた影響についてはすでに美術史的な検証が十分にされているのは前述したとおりである。ライトに関して、ケヴィン・ニュートは浮世絵とライトの建築の関連について、詳細に検討している。[51]ニュートはライトが浮世絵に関して「日常生活の民主的な表現」という見方をしていたことを紹介している。ライトが浮世絵から「いき」として知られる抽象的な要素に触発されたことは、十分ありうる。九鬼の父、九鬼隆一[52]男爵が岡倉天心と共に1893年、シカゴにおいて開催された世界コロンビアン博覧会における日本美術展の開催を助力した。隆一はライトに直接個人的な面識があった。そしてこの博覧会においてライトは初めて日本建築に出会ったのである。本博覧会において建てられた日本パヴィリオン、平等院鳳凰堂の複製はアメリカにおける最初の本格的な日本建築であった。(ニュートはこの鳳凰堂をはじめとする日本建築のライトの建築への影響を論じている。)そして博覧会から十五年後、鳳凰堂が建てられていた場所からわずか1キロ足らずの場所にライトによるロビー邸が着工された。[53]九鬼は数奇屋建築を「いき」の表現の例として挙げた。中尾達郎は「いき」と関連性の深い粋(すい)と数奇屋の語源の民間語源的解釈のつながりを示唆した。[54]ニュートは数奇屋建築がライトに特別な重要性を持っていたことをライト自身の発言の中に指摘している。[55]またウィリアム・ジョーディはアーツ・アンド・クラフツ運動のライトへの影響を示唆した。そしてライトがこの運動と日本のデザインの影響を反映した家を1889年にシカゴ郊外のオークパークに建てたことを指摘している。ライトが影響されたのは日本建築の形態的な部分のみならず、抽象的な美的感覚にもよることは確かであろう。ニュート、そしてライト自身も[56]、日本からの抽象的、精神的な影響を証言している。

ロビー邸は多くの点で現地の他の家と異なる。徹底した直線の使用は九鬼が「いき」は曲線を避ける[57]とした点に合致する。外壁と塀に使用されているローマン煉瓦は通常の煉瓦より細長い。そして垂直方向のつなぎ目を隠すようにライトが指示したため、水平方向へ明確な横縞を形成している。この縞は「適宜の荒さと単純さとを備えて」[58]いる。縞が模様における「いき」の重要な表出であることは前述した。九鬼は「縦縞が感覚および感情にとってあまりに陳腐なものとなってしまった場合、…横縞が清新な味をもって特に「いき」と感ぜられる」[59]と言うが、この横縞は縦方向に伸びるヴィクトリア様式の家々の中では極めて引き立つ。

小ぶりの目立たない入り口は数奇屋建築を連想させる。邸の内部では木の棒を垂直に並べた枠が目につく。「月の光」と呼ばれている照明部は行灯や障子に基づくデザインであり、合成樹脂紙を通した、粋な建築の要件である仄かな照明である。[60]このプレーリー・ハウスの原型では、暖炉が床の間に相当する。ニュートはグラント・マンソンによる、ライトが床の間の位置を暖炉に置き換えたという指摘[61]を支持している。この点はさらに向山によっても確認されている。[62]

これらの観察を踏まえ、ロビー邸は「いき」の表出を多くの点で示しているといえる。ライト自身の言葉によると「最初の近代アメリカの家」であるところのロビー邸において、ライトによって美的性質として捉えられたものは、わびでもさびでもなく、江戸の町民に由来する「いき」なのである。

5. 結論

九鬼は大衆的な美的理念、「いき」を初めて学問的に扱おうとしたが、西洋と近代への両価的感情に基づく葛藤の中で過剰な理論付けに陥った。戦間期において西洋と近代を日本のアイデンティティと和解させる国粋的な試みの中で、九鬼は「いき」の日常性、俗悪性、軽薄性、何気なさといったいきいきとした日常性の諸性質を軽視し、「いき」を武士道によって裏付けようとした。九鬼の試みに対し、三点の批判がなされた。第一に彼が西洋の方法論に依存していながら、なお西洋が「いき」を理解することを疑うという矛盾である。そして第二に「いき」の起源を町人でなく、武士に帰した点である。第三に日常性の軽視の問題である。九鬼は西洋哲学の概念を効果的に用いて「いき」を説明した。しかし彼は非日本人には理解不能であると含意しつつ、「いき」の特殊性を、「大和民族」[63]に帰する点を不自然なまでに強調した。しかし、西洋的文脈においては単純性と黙示性が非芸術としての「いき」を捉えるのにより有効である。

「いき」の起源を生活と芸術が不可分である点に求めれば、「いき」は決して非日本人にとってまったく理解しえないものではない。さらに「いき」の表出の例、九鬼自身の詩やその他の文化的事象は「いき」の西洋と近代文化における適用を示している。西洋/近代の文脈においてライトのロビー邸は、それが日本建築の影響を受けていることや、ライト自身の浮世絵との関与を考慮しなくても「いき」の要素を見出しうる。

「いき」は二つの極端な立場とは相容れない。それは「いき」が日本人のみに理解しうる理念であるという立場、そしてそれは単純に普遍的な理念の一つに分解しうるという立場である。「いき」とは流通性を持つ美的理念である。日本の美学の特殊性のみや普遍性のみを強調するのは不毛である。「いき」の解釈は唯一であるものではなく、また不変でもない。「いき」は確かにある意味で美学理念としては特殊な点を持ち合わせているが、それは非日本人に伝えることができないというものではない。「いき」を現代の日本人がそもそも正確に把握しているのかという点も問題である。建設的な議論は日本美学の研究がより一般的な美学に貢献しうるかという点である。日常の美学としての「いき」は、日常のある部分を取り出して美的に捉えるのではなく、日常生活の全体を美的に捉え、日常を揺り動かすことであると結論づけることができる。

6. 文献リスト

6.1.  英語、仏語文献

Connors, Joseph. The Robie House of Frank Lloyd Wright, Chicago: University of Chicago Press, 1984. 

Dale, Peter. The Myth of Japanese Uniqueness, New York: St. Martins Press, 1986.

Ekuan Kenji. The Aesthetics of the Japanese Lunchbox, edited by David B. Stewart, Cambridge, Massachusetts: MIT Press, 1998.

Heidegger, Martin. "A Dialogue on Language: Between a Japanese and an Inquirer" from On the Way to Language, Translated by Peter D. Hertz, New York: Harper & Row, 1971.

Hoffmann, Donald. Frank Lloyd Wright's Robie House: the Illustrated Story of an Architectural Masterpiece, New York: Dover Publications, 1984.

Jordy, William H. Progressive and Academic Ideals at the Turn of the Twentieth Century, in American Buildings and Their Architects, vol. 4, New York; Oxford: Oxford University Press, 1972.

Light, Stephen. Shuzo Kuki and Jean-Paul Sartre, Influence and Counter-Influence in the Early History of Existential Phenomenology, Carbondale: Southern Illinois University Press, 1987.

Nishiyama Matsunosuke. Edo Culture: Daily Life and Diversions in Urban Japan, 1600-1868, Hawaii, University of Hawai'i Press, 1997. [A translation of Edogaku nyumon. See Edogaku nyumon.]

Nute, Kevin. Frank Lloyd Wright and Japan: The Role of Traditional Japanese Art and Architecture in the Work of Frank Lloyd Wright, New York: Van Nostrand Reinhold, 1993.

Okakura Kakuzo. The Book of Tea, ed., Everett F. Bleiler, New York: Dover, 1964.

Pincus, Leslie. Authenticating Culture in Imperial Japan: Kuki Shuzo and the Rise of National Aesthetics, Berkeley: University of California Press, 1996.

Polanyi, Michael. The Tacit Dimension, London: Routledge & Kegan Paul Ltd., 1966.

Roemer, Michael. "The Surfaces of Reality", Film Quarterly, 18 Autumn 1964.

Secrest, Meryle. Frank Lloyd Wright: a biography, University of Chicago Press ed., Chicago: University of Chicago Press, 1998.

Shklovsky, Viktor. "Art as technique" In Russian Formalist Criticism: Four Essays, Translated by and with an introduction by Lee T. Lemon and Marion J. Reis, Lincoln: University of Nebraska Press, 1965. 

Tanizaki Jun'ichiro. Praise of Shadows, Translated by Thomas J. Harper and Edward G. Seidensticker (Stony Creek Connecticut: Leete's Island Books, Inc., 1977), First published in 1933.

Watts, Alan. Uncarved Block, Unbleached Silk: the Mystery of Life, photos and introduction by Jeff Berner; calligraphy by Renée Locks. New York: A&W Visual Library, 1978. 

Wilde, Oscar. "The Decay of Lying," in Intentions, New York, The Nottingham Society, 1909, First published in 1891.

6.2.  日本語文献

(姓の五十音順)

小木新造他、『江戸東京学事典』、三省堂、1987年

諏訪春雄、『江戸っ子の美学』、日本書籍、1980年

九鬼周造、「「いき」の構造」『九鬼周造全集』、岩波書店、1981年

永井荷風、「江戸芸術論」、『永井荷風全集』第十一巻、中央公論、1948年

中尾達郎、『すい・つう・いき―江戸の美意識攷―』、三弥井書店、1984年

西山松之助『江戸学入門』、筑摩書房、1981年

芳賀登編、『町人文化百科論集3江戸のうつりかわり』、柏書房、1981年

南博、「『「いき」の構造』をめぐって」、『日本人の芸術と文化』、『南博社会心理論集』第三巻、勁草書房、1980年

二葉亭四迷、「余が言文一致の由來」、『二葉亭四迷全集』、岩波書店、1938年

マイナー、アール、『東西比較文学研究』、明治書院、1990年

安田武、多田道太郎、『「『いき』の構造」を読む』、朝日新聞社、1979年

安田武、多田道太郎編、『日本の美学』、風濤社、1970年

著作権に関する注

本文書の著作権は山本有二に属する。本文書は電子的には基本的に無償で配布されるものとする。そのさい内容に一切の変更を伴なわないものとする。本文書の再配布はその形態を問わず(電子的媒体から印刷された物を含む)著者(山本有二)の明示的な許可を要する。本文書に引用された文章は学問的慣習により妥当と考えられる範囲内であるが、著作権が有効である文章を含む。また著者は本文書の妥当性に関して一切の法律的保証を行うものではない。この文書の使用は各利用者の責任において行われるものとする。(とくに原著者、出典を明示せずに自分の意見として発表する行為は剽窃となり、そのような行為者の物理的所在に関わらず(当然日本国外においても)社会的、学問的、法律的不利益を被るので注意されたい。)

 



[1]諏訪、『江戸っ子の美学』、pp. 56-59。

[2]西山、『江戸学入門』、p. 200。

[3]遠藤、本間、「心理学的に見た『いきの構造』」、至文堂『現代のエスプリ141いき・いなせ・間』、p.195。

[4]九鬼、「『いき』の構造」、『九鬼周造全集』第一巻、pp. 54-55。

[5] Pincus、Authenticating Culture in Imperial Japan、p. 133。

[6]安田、多田、『「『いき』の構造」を読む』、p. 20。

[7]小木他、『江戸東京学事典』、p. 427。

[8]芳賀編、『町人文化百科論集3江戸のうつりかわり』、pp. 228-237。

[9]中尾、『すい・つう・いき』、p. 23。

[10]二葉亭、「余が言文一致の由來」

[11]安田、多田、『「『いき』の構造」を読む』、p. 71、107。

[12]南、「『「いき」の構造』をめぐって」、pp. 91-92。

[13] Pincus、Authenticating Culture in Imperial Japan pp. 131-132。

[14]南、「『「いき」の構造』をめぐって」、p. 92。

[15]永井、『江戸芸術論』、pp.187-188。

[16] Pincus、Authenticating Culture in Imperial Japan、p. 188。

[17] Ibid.

[18]九鬼、「巴里心景」『九鬼周造全集』第一巻、p.208(「『明星』手沢本による訂正」)

[19] Pincus、Authenticating Culture in Imperial Japan、p. 194。

[20]この対話はドイツ文学者手塚富雄がハイデッガーを訪問したことに基づいている。注意深い読者は誰しも、この対話はハイデッガーが「九鬼との対話を創作を交えて再現」(Peter Dale、The Myth of Japanese Uniqueness、p. 69)したものではなく、ピーター・デイルが明白な誤りを犯していることに気づかれるであろう。(誰が自分自身の墓に書かれた文字について言及するであろうか?)

[21] Heidegger、"A Dialogue on Language"、p. 3。九鬼は実際には男爵であったが、"A Dialogue on Language"においては誤って伯爵と呼ばれている。

[22] Heidegger、"A Dialogue on Language" p. 2。

[23]九鬼、「『いき』の構造」、『九鬼周造全集』第一巻、p. 77。

[24]小木他、『江戸東京学事典』、p. 427。

[25]九鬼、「『いき』の構造」、『九鬼周造全集』第一巻、pp. 82-83。

[26]安田、多田、『「『いき』の構造」を読む』、pp. 20-21。

[27]九鬼は理念としての「いき」が現れた対象に「表現」という語を用いているが、これは今日の一般的用法からややずれがある。今日、表現という場合には表現されるものとは別の、表現行為の主体の存在が予想されるが、九鬼の意図した「表現」には多く行為主体が伴わない。従って「表出」という語がより適切と考えられる。本論文(和文)においては、九鬼自身の文章以外では表出という語を用いる。(本論の英語の原文ではmanifestationという語をあてた。)

[28]九鬼、「『いき』の構造」、『九鬼周造全集』第一巻、p.14。

[29] Ibid.、p.60。

[30]九鬼は『「いき」の構造』の準備稿である「『いき』について」で、パブロ・ピカソを表の一部に位置付けているが、この表では彼のピカソに対する意見は明確ではない。

[31]小木他、『江戸東京学事典』、pp. 16-18。

[32]安田、多田、『「『いき』の構造」を読む』、pp. 58-59。

[33] Nute、Frank Lloyd Wright and Japan、p. 21。

[34]九鬼、『「いき」の構造』」、『九鬼周造全集』第一巻、p. 65。

[35] Tanizaki Jun'ichiro、Praise of Shadows、trans. Thomas J. Harper and Edward G. Seidensticker (Stony Creek Connecticut: Leete's Island Books、Inc.、1977) First published in 1933.

[36]九鬼、「『いき』の構造」、『九鬼周造全集』第一巻、p.43。

[37]これらの表現のほとんどは日本語以外の言語では成句ではない。だが日本語では成句であり、日常に溶け込んでいる表現といえる。

[38] Shklovsky、"Art as technique" p. 12。

[39]安田、多田、『「『いき』の構造」を読む』、p. 21。

[40]九鬼、『「いき」の構造』」、『九鬼周造全集』第一巻、p. 80。

[41]九鬼、"Theatre Japonais" 『九鬼周造全集』第一巻、p. 255 (94)。山本による仏文からの和訳。この文献は和文と欧文の個所があり、欧文の個所では一部ページが逆行する。括弧内が欧文でのページ数である。

[42]解題、『九鬼周造全集』第一巻、p. 468。

[43]九鬼、「巴里心景」、『九鬼周造全集』第一巻、p. 109。

[44]南、「『「いき」の構造』をめぐって」、p. 76。

[45]九鬼、「『いき』の構造」、『九鬼周造全集』第一巻、pp. 119-120。「『明星』手沢本による訂正」

[46] Ibid.、p. 203。

[47] Ibid.、p. 161。「『明星』手沢本による訂正」を行ったもの。

[48] Ibid.、p. 47。

[49]九鬼、「『いき』の構造」、『九鬼周造全集』第一巻、pp. 43-44。

[50]小木他、『江戸東京学事典』、p. 427。

[51] Nute、Frank Lloyd Wright and Japan、Chapter 6、"The woodblock print and the geometric abstraction of natural, man-made and social forms." pp. 99-119。

[52]九鬼隆一は副文部大臣、アメリカ全権大使、東京国立美術館の館長を歴任した。

[53] Nute、Frank Lloyd Wright and Japan、p. 31 n 59。Secrest、Frank Lloyd Wright p. 185も参照のこと。

[54]中尾、『すい・つう・いき』、p. 32。

[55] Nute、Frank Lloyd Wright and Japan、pp. 122-141。

[56] Frank Lloyd Wright, "In the Cause of Architecture, V: The Meaning of Materials – The Kiln," Architectural Record 63 (June 1928): pp. 555-561.

[57]九鬼、「『いき』の構造」、『九鬼周造全集』第一巻、p. 66。

[58] Ibid.、p. 56。

[59] Ibid.、p. 55。

[60] Ibid.、p. 67。

[61] Nute、Frank Lloyd Wright and Japan、p. 41。

[62] Koyama。Nute、Frank Lloyd Wright and Japan、序文。

[63]九鬼、「『いき』の構造」、『九鬼周造全集』第一巻、p.12。